「仕事やお金について相談に乗ってほしい」とリクエストをいただいて、お話を聞かせてもらっていました。
すると、その方が「ほかのことは、そんなに心配していないんだけど」と言いました。
それを聞いて「恋愛や結婚について相談に乗ってほしい」というリクエストをいただいて、お話を聞かせてもらっていると、「仕事やお金のことは、なぜか心配にならないんだけど」や「正直、容姿も愛嬌もいけてると思うし、自分で言うのもなんだけど、まぁまぁモテると思うし、自分に問題があるとは思えないんだけど(それは心配していないという感じ)、ご縁が・・・」ということを聞いていたことを思い出しました。
(一人だけではなく)そういったことは何名もおっしゃっていた気がする、と思いました。
それで、ふと「心配がキーワードなのかもしれない?」と思いました。
愛や豊かさ、自由、素晴らしい縁や再会を妨害しているもの、あるいははからずも自ら遠ざけていたものは、心配だったのかもしれない?
心配とは?
辞書やAIなどで「一般的な意味」を確認してみたものをまとめると、
心配とは、物事の行き先を気に病むこと、あるいは人の心配や気遣いをすること。
心配と不安の違いとしては、心配は対象が具体的で、不安は対象が漠然としていること。
なんだそうです。
今回は「心配」について、もうちょっと見ていきたいと思います。
心配って「ある人の心配や気遣いをすること」とありますが、そう言った面で、わたしはあるときまで「心配=愛」だと混同・混乱していたことがありました。
「誰かが心配してくれるのは、わたしのためを思って=愛ゆえにそう言ってくれているのかもしれない」というように。
調べてみても「役に立つ心配」「役に立たない心配」と出てきて、
それを読みながら、わたしの中では、自動反応的に、
「役に立つ心配=よいもの、役に立たない心配=あんまりよくないもの(超極端に言えば悪、そちらへいくな、みたいな感じ)。あっちはダメで、こっちはこう」とエゴの判断がされていることが観測されます。
エゴは、
「どうなるかわからないものへの心配は役に立たないこと=してもむだ、意味のないこと」
「近い将来に自分の行動で解決・準備ができる具体的な問題への心配=意味があること。だから心配すれば安全だ、解決できる、打開できる」
と言っているかのようです。
けれども、果たして本当なのだろうか、どうなのだろうか、わからないなぁ、とおもいます。
「具体的な対象(人・出来事・お金・身体など)などへの心配」は、「意味があること」のように思えるときがあります。
自分の行動で解決・準備ができるかもしれない、打開できるかもしれない。
調べてみればたくさんの「ああするといい、こうしたらいい」「こうしたらいいかも、ああしたらいいかも」「ああすべき、こうすべき」という「アドバイス、助言」や「選択肢」があります。
それは正当に思える、ということもある。
「正しいこと」のように思える、ということがある。
「心配していること自体」が正当で、真っ当で、正しいことのように思えることがある。
そして、それを受け取り、行動に移してみて「うまくいく」こともあれば、「うまくいかない」こともある。
行動に移せるときもあれば、なぜなのか行動に移せないときもある。
「努力してきた(あるいは努力してきたつもり)なのに、うまくいかなくなった」というときは「なぜか行動に移せない」というとき「もうどうしたらいいかわならない」というときは、
もしかしたら「正しさ」や「正当性」や「過去の経験則」を超えて、心の声と、つながりたいときなのかもしれない?
心のどこかで、いつも「自分でなんとかしなきゃ」「ああなる、こうなる、だから、ああして、こうして」と密かに厳しく自分を世界していた声を信じるかわりに、ただ、与えられている愛や豊かさや自由、そしてその采配に、心の扉を開きたい、そして、無条件にただ、すっかり安心していたいのかもしれない。
「正しい・間違い」「当たる・当たらない」を超えて、自分自身の心の奥にすでに与えられ続けている豊かな愛そのものとつながりたいときなのかもしれない。
「心配」は、人間関係(特定の人間関係、あるいは人間関係全般、結婚、親子関係、パートナーシップ)で出てくることもあれば、お金で出てくることもあれば、身体(容姿、健康、年齢)で出てくることもあれば、何で出てくるかわかりません。
その「心配」は、「20代の頃はお金で、30代の頃は結婚で、40代になってからは家族関係で」と、形を変えて現れる、ということはよくあることかもしれません。
わたしの場合、ある時期から、なぜか「たくさんの人・いろいろな人と会うようなイメージ、感覚」が浮かび、そのイメージに対してはっきりと「豊かさ、自由」という感覚を受け取っていました。
「これが豊かさであり、自由である」という、説明のつかない直感のようなもの、です。
これは、もしかしたら、わたしは「人間関係(特定でも全般でも)」に、「心配」していた時期が、すごく長かったからかもしれない、そして長い間「これがわたしである(わたしは人間関係が苦手なのである)」と信じ込んでいたからかもしれないと、思いました。
よく、人と会う前に「ああしないと、こうしないと。ああなるかも、こうなるかも」と考えたり「シミュレーションして落ち着こう」としたり「正しくならなきゃ、普通にしとかなきゃ、傷つけないようにしなきゃ」と思ってできない自分を責めたり、忙しかったときがあったかも。
すべて、自分で大事にしたい、大事にしよう、と思って・・・というか、あまりにもそう思いすぎて、その思いを心の中でぐるぐると追いかけて、ひとりで疲れて、勝手に「人間関係が疲れる」と思っていたかもしれない。
けれども、このイメージ・感覚を受け取っているうちに、「これがわたしである(わたしは人間関係が苦手なのである)」という自己呪縛、過去の歴史は、いつのまにか、解かれていっていた、
というか、以前から(人間関係において)とても安心して信頼して寛いでいるところもたくさんあった、ということも日々、思い出していたのです。
「心配しないようにする」「心配を消そうとする、手放したなら心配は浮かんでこないはずだ」と、自分でなんとかしようとすると、また心が疲れてしまうことがあります。
そして、たしかに「過去は手放す(過去を過ぎ去った)」「正しいか間違いかではなく、幸せを選択する」という言葉は、わたしが迷子にならないため、いつの間にかエゴに騙されて沼のほうへとついていないため、エゴに引きづりまわされてこれ以上疲弊・消耗しないために、力強い道標になってくれました。これからもです。
けれども、本当の解決って、「すでにもう、聖霊によって取り消し済みであること」を受け取るることだと、何度も実感します。(これは奇跡講座に出会い、そのあゆみの中で受け取ったもの、意識化されていったものでもあります。感謝です)
心配が手放され、その代わりに、すでに与えられ続けている豊かな愛を心で受け取るとき。
その心は、この世界の体験を通しても、”豊かさ”や”愛”という体験を、見せて、感じさせて、くれる・・・
日々の生活、そして、セッション・クラスでも、そんな気づき、体験を、たくさん共有、分かち合えることに、本当に感謝しています。