セッションやクラスなどで、その方の光を見せていただくと、大きく溢れるほどの光、流れ出さずにはいられないほどのエネルギーを感じることがよくあります。
そして、そのたったひとつの光を分かち合うひとときは、いつも心の力を思い出させてくれます。
「大きく溢れんばかりの光、流れ出さずにはいられないほどのエネルギー」とは、きめ細やかでやさしく、静けさに満ちた感じであって、
「やる気や意欲や情熱」などのイメージとは異なります。
そして、その光、静けさは「自分の中にある自分よりも大きな何か」からのものでもあります。
しかし、同時にセッションでよく浮かび上がってくるテーマとして「その光の流れ、エネルギーが、本来使わなくていいところで使って回ってしまっていた」ということがあります。
「本来使わなくていいところでエネルギーが回る」というのは、自然体ではなくなる、という言い方もできるとおもいます。
わたしたちが自然体でいられないときというのは、消耗したり、自分でも気づかないうちに疲れが溜まっていったりします。
そして、このパターンが無自覚的に長期間続いていると、休息や静けさなど、自分自身の光と一致すること自体が難しく感じられたり、自分自身が自然である方が違和感を感じることもあるようです。
ここでは心を見ていくので「忙しいか忙しくないか」とか「外に出て人と会うか、家で一人で過ごしているか」とか「身体をよく動かしているか、身体をケアしているか」ということとは関係がありません。
「こっちの回路は使いたくない(疲れる、いやだ、という感覚)」を認識していくことと、「本当の意味で心が平和や喜びを感じること=内なるガイダンス」を聞き従っていくことの両方が大切だと感じています。
けれども、自分自身の境界について向き合ってない場合、「こっちの回路は使いたくない(疲れる、いやだ、という感覚)」がわからなくなってしまったり、否定的な断り方や離れ方のイメージしか持てなくなってしまったりすることもよくあるのですが、
内なるガイダンスによる光の流れとは、現実的な面に置いても、いつも、平和で優しいものであるということです。「自分でも気づかないうちに(あとからふと振り返ってそういえば、と思う感じ)」・・ということもよくあることです。
誰もが、素晴らしい光を持っていて、それは絶えず溢れ出そうとしています。
けれど、その尊いエネルギーを、自分を責めたり、誰かの期待に応えたりといった「本来使わなくていい回路」に流して、図らずも自然な流れから離れ、疲れ果ててしまうことがあります。
かつての私自身もそうでした。 そして、今もそのプロセスの中にいるとおもっています。
境界についての認識を共有することは、本来の方向へと光が流れることへの躊躇や、「また同じようなパターンを繰り返してしまうのでは?」という不安を、本人も気づかないほど優しく、いつの間にか、取り除いていってくれるように感じています。