すでにある安心に気づく視座

最近、境界線・バウンダリーについてのテーマになることがよくあります。

多くの場合「境界線・バウンダリー」という言葉は、エゴ(分離感、個の意識)をベースに認識されていることも多いようです。

「ここから先は入らせない」「自分を守るために相手を排除する」というような物理的、心理的な壁としての認識のままの場合、

「攻撃されるかもしれない」という恐れが前提にあるため、

結果として孤立や対立、分離感、孤独感、さみしさを強化してしまうことがあります。

けれども、心が本当に解放されるとき、癒やされるときというのは、

「嫌なものから逃げたとき、嫌なものから身を守れているとき」ではなく、

「自分でなんとかしなきゃ」という責任感や力みを抱えているときでもなく、

「心の奥にある供給源」と共鳴したとき、そうして、常に今与えられ続けている”平安”を受け入れているときです。

境界線・バインダリーを、光の視座から認識していくと、

外側との遮断ではなく、内なる共鳴先の選択であるということが見えてきます。

「わたしは境界線について学んで、嫌なものは嫌だとはっきり言えるほうだ」とおっしゃる方で、

親密な関係性となると、さみしさが噴き出てきてつらくなったり、無意識のうちに我慢ばかりしていたり、急に冷めてしまったり・・

そうして、関係性が長続きしなかったり、無意識のうちに関係性を遠ざけてしまったり、ということもあるようです。

境界線・バインダリー・これは誰の領域か?ということについて問いかけていくとき、

同時に「これは外側との遮断や、自分を危険から守るためではなく、内なる共鳴先の選択である」ということを思い出していくなかで、

自然と(努力したり、なんとかしようとしたりしていなくても)、

「心が本当に望んでいたもの」へと導かれているように感じることがあります。

目次