もしかしたら「見落とされがちな導き」かもしれない、について。
導きとは「間違った知覚が止まること」ともいえます。
何かが付け足されるのではなく、何かが静まる。
エゴ(思考体系)は、
変化、成長、進展、手応え、「サイン」、「メッセージ」、などの、「出来事」を好みます。
※光からの”サイン”や”メッセージ”を否定しているという意味ではありません。エゴが「自分のもの」にしやすいところ、みたいな感じです。
だから、静けさ(何も起きない、何も示されない、何も変わらない、ドラマがない)という状態を、
「停滞」「間違い」「失敗」と解釈しやすいものです。
けれども、奇跡・癒しとは、誤った解釈(エゴによる解釈)が止まること。
誤った解釈(エゴによる解釈)が止まるとき、外側では何も起きません。
エゴが期待する「早急な問題解決、指定した通りの不足を埋める何か、嫌だと思っている外側の何かが変化すること」は起きません。
なぜなら「問題、不足、嫌だという見方」は、エゴの解釈だから。
まず、ここが訂正されていくときは、外側で何も起きません。訂正は外側の話ではありません。
その「訂正されるままのとき(外側でなにも起きないとき)」というのが、
3秒なのか、3時間なのか、3日なのか、3週間なのか、3ヶ月なのか、3年なのか・・
というようなことは、もしかしたら、あるかもしれませんが、
いずれにせよ「訂正されるままにゆだねている状態」は通ります。
その「訂正されるままに、ゆだねている状態にゆだねる」というのは、
「何も起きない静けさにゆだねる」ということ。
静けさのとき、判断が休んでいる、自己修正が止まっている、正しくあろうとする努力がゆるんでいる、役割や立場が一時的に外れている、防衛が下がっている、「指示」がない、「声」がない、「正解」がない・・
・・ということが「起きて」います。
これは、存在としての安全が回復している状態で、これ以上の導きはありません。
エゴの判断もしずまり、かといって「導かれてる感もしない」というときほど、
最も安全な導きのど真ん中にいて、その”周波数”に身体・神経も、慣れていってる時期なのかもしれない、と思うことがあります。
いままで、長い間無意識的に「生き延びなきゃ、なんとかしなきゃとがんばってきた回路」から、
「もうひとつの回路」へと心が開いていくなかで、
細胞一粒一粒に、その光の振動が染み渡っているような感じがしました。