「他者を呼ぶ」という動きの本質─継続コースの静かな仕組み

前回の余韻のまま、 今回も継続コースという形の奥で働いている光に言葉を任せてみました。

Light Remember版です。

そこにあるのは特別な関係ではなく、光を見る準備

継続コースについて書くとき、「セラピストとクライアント」という構造が前面にあるように見えます。

けれど、そこで本当に起きているのは、関係性のやりとりではありません。

「光と自分の関係の修復」が起きています。

わたしたちは、
深いところにある光を忘れているとき、
その光を一人では信じられないことがあります。

「こんな深い層を見ても大丈夫だろうか」
「光に照らされたら苦しくなってしまうのでは」

そんな誤解が長く続いていた場合、
心は「鏡」を必要とします。

その鏡とは、外側にいる「誰か」という形をとってあらわれる他者です。

それは、その根源的な誤解が光によってほどける準備が、静かに整った合図でもあります。

わたしたちが他者を呼ぶときというのは、
心が『鏡を通して光を見ても大丈夫』と、
深層で静かに許可された瞬間でもあります。

これは依存ではありません。

むしろ逆です。

「わたしの光は外側の誰かに奪われることはない」

「光は怖いものではない」

「光に照らされても大丈夫な段階にいる」

──この深層の安全が整ったからこそ、
わたしたちは他者という鏡を自然に呼びます。

なぜこれが深層なのでしょうか。

わたしたちは「二人よりも、一人のとき」のほうが、安心や安全を感じやすいように思えることがあります。

わたしたちは「二人よりも、複数人」のほうが、なんだか紛れるように思えることがあります。

「二人」という「ふたつの光の鏡合わせ」は、
まるで「鏡で自分の顔をまっすぐに見る」ように、

「わたしの光を隅々まで見て、受け入れる」という深さという光の性質でもあるからです。

「特別な関係」という、これまで触れたくなかった層を「ほんとうに光で見てもいい」と心が緩んだとき、その蓋は外され、すでに光が差し込まれはじめています。

それは「ないと思っていた光がある」ことを思い出す準備が整ったという合図なのです。

他者という鏡は、わたしたちが内なる光を直接見はじめるためのごく短い移行期間の「補助光」のようなもの。

そして継続コースは、その鏡をそっと通り抜けて、内側の光へと戻る道を歩いていくための器です。

継続コースでは、その受け取りが静かに始まっています。

※本文の「特別な関係」という表現は、日常語ではなく奇跡講座(ACIM)の文脈に基づくものです。