前回までの記事では、神さまのサインを「外からの奇跡」ではなく、
内なる平和が外に映し出された象徴として見つめてきました。
けれども、心が恐れを抱いているとき、聖霊の導きを「エゴの声」と取り違えたり、
逆にエゴが作り出した現象を「サイン」と信じてしまうこともあります。
この記事では「サインの創作」と「サインの誤読」という2つのすれ違いを通して、
神さまの声とエゴの声の違いを整理していきます。
「サインの創作」 ― エゴが“サインのような現象”を作り出すとき
恐れや欠乏感、特別意識を土台にして、わたしたちは無意識に「意味」を作り出してしまうことがあります。
それが“サインの創作”です。
外の出来事に、自分の不安や、裏に恐れを隠した願望を投影している状態です。
例1:不安を誤魔化すためのサイン
あの人から返信が来ない。けど、今日“777”を見た!
これは“信じなさい”というサインに違いない!
実際には、恐れ(拒絶される不安)を癒す代わりに、
「特別な意味づけ」で安心を得ようとしている状態です。
数字や偶然は中立的なものです。
それを“神さまのサイン”に仕立て上げるのは、欠乏を満たすための心の動きです。
例2:罪悪感を正当化するサイン
体調が悪いけど、使命だから休んではいけない。
これは“耐えなさい”というサインだ。
愛の導きは、いつも優しさと休息を含みます。
けれどもエゴは、「苦しみ=聖なる証明」として自己犠牲を“聖なる義務”に見せかけることがあります。
“休んではいけない” と自分を追い詰める内側の声は、罪悪感というエゴの前提(自己攻撃)を “正しいこと” に見せかけて維持するためのメカニズムです。
それは愛ではなく、恐れが作る“偽りのサイン”です。
例3:特別意識による“選ばれたサイン”
「偶然の一致が多いのは、わたしだけが特別な使命を与えられているからだ!」
神さまの導きは、愛の分かち合いとして現れます。
「わたしだけが特別」という方向に傾きはじめたら、それはサインを使って分離を強化している合図です。
サインは誰かを選ぶためではなく、すべてをひとつに見るために届きます。
「サインの誤読」 ― 神さまの導きを恐れで読み違えるとき
一方で、本当の愛の導きが届いているのに、心がまだ恐れで曇っているために
それを“脅威”や“義務”として受け取ってしまうこともあります。
「光は来ているのに、受け取る側の心が曇っている」
それが“サインの誤読”です。
例1:休息への誘いを「怠け」と誤解する
静かな声が「今日は休もう」と囁いているのに、「そんなの怠けだ」と思ってしまう。
本当は神さまが「休息の中で思い出しましょう」と招いているのに、
エゴが「それでは価値がない人間だ」と変換している状態です。
例2:休息への誘いを「恥」と誤読する
会社を休むことになったのは、わたしがこれ以上恥をかかないためだ。休んで反省しなければならない。
このように解釈してしまう場合もあるようです。
この読み方は、愛のサインではなく、エゴが罪悪感を強化するために作り出した“偽りのサイン” です。
実際には、あなたがこれ以上自己攻撃へ戻らないように、愛が優しく守ってくれた のであって、
休息の中で、“あなたの価値は行動で測られない” という真実をそっと思い出してほしいという愛からの招きです。
例3:愛の行動を「危険」と誤解する
「謝りたい」「感謝を伝えたい」と思った瞬間、「そんなことをしたら弱く見える」と抑える。
恐れが愛の流れをせき止めているとき、導きは“危険”のように感じられます。
けれどもその奥には、光に近づいている証が隠れています。
例4:思いがけない展開を「脅威」と誤解する
突然の変化や新しいチャンスが訪れたとき、急に「怖い、間違いかも」と感じてしまう。
しかし神さまは、愛の学びに必要な出来事しか起こさないと教えています。
未知を怖れる心が、「危険」と読み替えているだけなのです。
サインの創作と誤読を見分ける視点
サインの創作
方向性:欠乏から「意味」を作る
典型的な感情:高揚・焦り・特別感
真の癒しの鍵:欠乏を見て赦す(「恐れを見つめる」)
サインの誤読
方向性:愛の導きを恐れで覆う
典型的な感情:不安・疑い・防衛
真の癒しの鍵:恐れを優しく観る(「静けさに戻る」)
エゴの声は、常に「何かを証明しようとする」方向へ心を引っ張ります。
神さまの導きは「すでに赦されている」という安堵の中にあります。
見分けの鍵は、「いま、心は静けさにあるか?」。
心に平和を感じるなら、そこにすでに神さまの声が働いています。
現象が繰り返し起こるとき
現象が何度も繰り返されるのは「心がまだ受け入れていないメッセージ」が優しくもう一度届けられているということでもあります。
一度受け取った導きが、「本当に受け取っていいのですよ」と形を変えて再び訪れている。
それは罰ではなく、愛の根気づよい招きです。
同じような出来事が続くとき、「まだ何か間違えている」と責めるよりも、
「愛がもう一度、わたしの心を包みにきているのかもしれない」と思ってみるだけでも”本当の答え”への導きを受け取りやすくなります。
驚きの中にある「光への慣れ」
導きの体験の中には、ときに「不思議」「神秘的」「どこか現実離れしている」と感じられる瞬間が現れることがあります。
そのような“説明のつかない出来事”を受け取るとき、私たちは言葉や理屈を超えた“何か”に触れ、ずっと心の奥にあった深い静けさへとそっと導かれていくのを感じるかもしれません。
それは、お読みくださっているあなたも一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
これは心が“光の働き”に気づきはじめた自然な反応 です。
神さまの導きは、何かを強制したり、外側から特別な現象を“操作”するものではありません。
むしろ、わたしたちの内側で受け取る準備が整った部分にそっと光を当てる働きです。
そのため、導きが“驚き”として現れることがあっても、それは不自然なことではありません。
むしろそれは、心が光に慣れはじめ、その存在を恐れずに受け取りはじめたサインなのです。
わからないものは、わからないままただ受け取ってみる・・というのもとても素敵です。