奇跡方面へのワーク(3)です。
3点セットで、今日が3点目です。


(1)は「〇〇な現実」「〇〇という問題」ということをはっきりとさせた状態で、「外向き矢印を内向き矢印にしていくイメージ」です。
(2)では「〇〇な現実」「〇〇という問題について自分が感じている感情を言葉にしてみる、ということをしました。
そのあとは、聖なる存在の光のもとで、思考を書き出していく・・・ということは、とても助けになってくれます。
ジャーナリング(書く瞑想)もいいですが、それだと「自我の御筆先」みたいになっちゃったり、「自我の妄想物語」みたいになっちゃったり、というときもあるようなので(※1)
そういうときは、書き出しのガイド(バイロンケイティワークなど)を使ったり、同じ実践をしている仲間に助けてもらったりするのは、「苦しい時間の短縮」ような感じがあります。
そして、それを、心(聖なる存在)にささげていく。
聖なる存在の導きの中で、自分は、ある意味何もしないというか、自分でなんとかしている感じはありません。
抵抗しているときなどは、このことが難しく感じるものです。わたしも「巨大な抵抗があがってきた」と言いたくなるようなときは、いきなりこれが「できない」みたいになることは、何度も何度もありました。
今思えば、それでもそのすべてが、聖なる存在の完璧な導きの中で、優しく慈しまれ、見守られ、愛され、解放されて、訂正されていっていた・・・と感じられます。
「聖なる存在の光のもとで」というのは「愛(この世のものではない無条件の愛)だけがリアルです」と知っている存在、領域にささげる・・・と言い換えることができるかもしれません。
その、聖なる存在の光と共に心と向き合っていく中で、あるとき「”それ(聖なる存在)”は、わたしの中にある」という感覚が訪れたことがありました。
そして、それこそが、「(本当の意味での)存在価値」という感覚を感じました。
聖なる存在。
自分の中にある自分が自分だと思っている自分ではない、自分よりもはるかに大きな何か。
わたしの場合、わたしが、「神様、聖なる存在」と擬人化するようにして「祈る、尋ねる」という対話形式(相対を前提とした形式)を取ることがある、そして、それが好きな理由は、
小さい頃から、なぜか身近にあって、なぜかよく祈っていた、ということもあるからかもしれないし、
過去に感情や感覚を強く感じていたときには「感情や感覚を強く感じているわたしじゃないわたし」が助けてくれていたことを何度も経験したからだし、
わたしは、自分のことを、まだまだ「自分はこの身体だ、この人格だ、この世界に自分はいる」と信じているから、というのもあるかもしれません。
「自分はこの身体だ、この人格だ、この世界に自分はいる」と信じているようなときは「それを信じていないわたし」とつながって、助けてもらう必要(自分がそのとき認識できていない、本当のことを思い出させてもらう必要)があります。
理由を書こうと思えば、色々出てきそうです。
そして「聖なる存在との対話、関係性」が「この世界の誰かや何かとの対話、関係性」に、もしかしたら、反映しているかもしれない、と感じることは、何度も何度も、何度でもあって、
それはわたしに、いつだって、深い安心を感じさせてくれました。
(※1)ジャーナリング(書く瞑想)で「自我の御筆先」みたいになっちゃったり、「自我の妄想物語」みたいになっちゃったりする・・・というときは「(ジャーナリングを続けているにも関わらず)心が苦しい感じや、怒り、同じことをずっとぐるぐる考えちゃう」というように「苦か?楽か?」で言えば「苦」という状態が何日も、何週間も、続くということがセルフチェックになります。
この場合は「目的」を明確にすること、そして、その目的が「苦か?楽か?」で言えば「苦」になっているかもしれなかったことをみていくことが大切になります。