助けになりたい願望の本当の意味

20代前半の頃。

長い長い「魂の闇夜」が明けた日々を過ごしていた頃。

わたしの中に「助けになりたいという願望」が出てきました。

そして、わたしは、この「助けになりたいという願望」、このような思いがある自分自身を、疑い、責めていました。

「自分が誰かを助けたいだなんて、おこがましい」と思いました。

(そのとき、わたしは、霊的な学び、指導者にも出会っていない頃でした)

この願望を、ぎゅうぎゅうに押し込めるようにして、自分のことを「おこがましい!」と否定して、忘れようとしていた・・・

このことを、なぜか、今日、ありありと、思い出しました。

そのあと、わたしは、心理学を学ぶようになり、共依存について学ぶようになり「相手を助けたいという強い欲求が、相手の自立を妨げることがある」「助ける、世話を焼くという、表面的には”素晴らしい人”でありながら、人を支配したいという欲求が隠されていることがある」ということを知っていくことになります。

このことを知っていく中で、わたしは、今までわたしを助けてくれた人、世話をしてくれた人、心配してくれていた人・・・全員ではありませんでしたが、

これまで「問題ない」と思っていた関係性、むしろ「よくしていただいた」と思っていた関係性、その一つひとつと、向き合っていくように導かれました。

わたしは長い間「自分が、誰かの欠けたところを見て、かわいそうだ、問題だと判断し、助けてあげようとする」という自我の働きを心の中に見つけては、恐ろしいと思い、罪悪感を感じていました。

当時「これは自我である」ということや「本当のわたしは神とひとつの神の子、スピリットである」ということについてよくわかっていなかったので、ただただ、自分は、恐ろしい人間だと、思っていました。

「自分が、誰かの欠けたところを見て、かわいそうだ、問題だと判断し、助けてあげようとする」でもいいじゃない、とは、全く、思えなかったのです。

まさに「助けになりたいと願う罪」によって「相手も自分も十字架にかけたような心の状態」を長く過ごしていました。

今思えば、わたしが経験した支配・被支配の関係なんて、大したことなかったかもしれない・・・それにそんなこと言い始めたら「わたしという個人の生まれ持った性質、体質のようなもの」や「時代背景、社会」など、いくらでも「心以外にある原因(本当は外側に原因はない)」ということが広がっていくようだ・・・と思っています。

わたしは「助けになりたい」という密かな思いを心の奥に押し込めて、「おこがましい」と自分を責めて過ごしてきた・・・このことは、悪いことばかりじゃありませんでした。

このことは、わたしに「させていただく喜び」を教えてくれました。

「こんなわたしにでも、できることがある。できることがないこともあるけど、できることがあることもある」というのは、とてもありがたく、うれしいことでした。

でも、このときも、どこか、心がすっきりと晴れなかったのは、今思えば「こんなわたしなんかに」という思いだったのかもしれません。

この何年間かで、今まで学んできていたこと、経験してきたこと、すべてがひとつになり、あのときの「助けになりたいという願望」に優しく触れることができるようになってきました。

そして、あるとき、祈りの言葉に瞑想していたら、あのときの「助けになりたいという願望」は、自分の願望(=「こんなわたしなんか」のおこがましい願望)じゃなくて、聖霊の声だった、という感覚がしたのです。

わたしは、自分を否定して謙虚になったつもりでいましたが、それは大きな大間違いで、あれは、聖霊の声だったんだ、という感覚を与えられたのです。

この経験は、聖なる存在への信頼、信仰、祈りによって、心によって導かれたものですが、「わたしだけのもの」ではない気がして、ブログを書いてみました。

これを書き終わった今、思い出したというか、一致したような感覚になったことがあります。

それは、わたしは、悩みを聞いたり、相談を受けたり、セッションでお話を聞いたりという機会をたくさんいただいてきましたが、そのとき、わたしは、相手や誰かのことを「かわいそう」と思ったことがないということでした。

ときには、違うものは違うというし、嫌なものは嫌だということはありますが、それは、その人を否定したいからじゃないんです。

「それは、とてもきついですよね」と思わず言葉が出ることはありますが、それも「かわいそうだから」とか「苦しみに共感している」とかじゃないんです。

正確にいえば、一瞬「そりゃ大変だ」という言葉が出てきそうになることも、皆無ではありませんが、「そりゃ大変だ」にかぶさるようにして「絶対に人生に乗り越えられないものはない」「聖なる存在に捧げることで奇跡に戻らないものはない」という”確信の声”が、わたしの中に、覆い被さるのです。

この”確信の声”は「こんなわたしなんかに」の方の声じゃない方の声です。

そして、わたしは、いつも、そこに、真の強さ、内なる力、その人の中にあるその人を超えた力を見ていました。

このことをずっと言葉にできなかったようですが、今、こうして、言葉にできたことを、嬉しく思います。

今日も「聖霊 わたしはあなたにわたしを通して働いてもらいたいです。どうぞ、あなたがわたしを通して為すことを見せてください」と祈っています。

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