年末限定「祈りと奇跡の個別レッスン(3回)」について。
ゆるし、解放、そして、奇跡の祈り。
なぜ、恐れや痛みの直視、マインドの浄化が大切かというと、祈りの奇跡の下準備のような感じともいえるのかもしれません。
わたし自身がそうだったという話でもあるのですが、恐れや痛みの直視、マインドの浄化から、見ないように逃げようとするのが続いていたときは、奇跡の祈りに深く入れないものです。
では「恐れや痛みの直視、マインドの浄化だけで十分か」というと、それはそれで一長一短ある気がしています。
もちろん、それだけで十分だということもあるのかもしれませんし、わかりませんが、わたしは「恐れや痛みの直視、マインドの浄化」だけだと、疲れ果てて、病みそうになっていた、というようなことはよくありました。
そして「祈り」によって、浄化だけでは、抜けきれなかったようなところが、本当の意味で落ちるような感じがしています。
けれども、この「祈り」は、祈りといえば祈りだけど、一般的なイメージの「祈り」とはまたかけ離れている気もして、もはや文字・言語にして伝えるのが難しいような感じがしています。
この「祈り」のとき、わたしは「具体的な願望」を使うことがよくあります。
けれども、ここが文面だったり、動画だったりすると、受け取る側が「引き寄せの法則みたい」に誤解されがち、曖昧なままになりがち、ということがあります。(そして、これは非常によくあることで、ほとんどそう、といってもいいほどです)
「具体的な願望」は「道具として使う」ものであって、引き寄せの法則や現実化などとは異なる話です。
抵抗も出てきやすいポイントだと思います。なので「もし、エゴが色々湧いてきたとしても、それで正常」みたいな感じでもあるかもしれません。
そして「具体的な願望」を使う、というとき、
・願望・欲求を持つことへの罪悪感、ジャッジメント、条件づけ
を無意識的に持っている場合、それはそれで、また祈りに深く入れない、というときもあるようです。
「無意識的に持っている場合」なので、すでに意識に上がれば(気づき)があれば、それでもうOKなのです。
「祈りと奇跡の個別レッスン(3回)」は・・
たとえば、仮に・・
わたしは今、
(1)解放されたい感じなのか
(2)寄り添ってほしいのか
(3)ただ受け入れてほしいのか
(4)治療を受けたい感じがあるのか
(5)自分で努力してなんとかしたいので、その方法を教えてほしいのか
(6)学びたい(知りたい)感じがあるのか
と、自分自身に問いかけてみたとき、
「(1)解放されたい」か「(6)学びたい、知りたい感じ」のときに、ちょうどいいかもしれないです。
そのどれもが、本当は心の向きとして「心の癒し、自由・・」がベースにあるんだと思います。
癒しに開いた心で日常生活送るのと、疲れ果てた心で日常生活を送るのとでは、
選ぶ選択肢も、行動も、言動も、反応も、そして結果も違うだろうなぁ、
というのは、真理やスピリチュアルなど脇に置いておいても「そうだよなぁ」という感じの話です。