洞窟のような谷底

今年はもう終わりを迎えようとしている。

今年に入って「ますます聖人君子だと見られているような気がする」という考えがよく出てきていた。

それで「ということは、よく見せよう、正しくしなくちゃ、ちゃんとしなくちゃ」というようなところがあるのかもしれないなぁ、と思っていたところ、たしかに、すごく、あった。

責任感や役割意識のようなものも出てきていた。

「そのままでいい」という全肯定を恐れていたとも思うし、救いも恐れていたと思ったし、今年は色々な恐れが出てきていた。

そんな感じで、恐れや痛みと自然と向き合うような流れの中にあったのかもしれないと、今振り返って、そう思う。

昨日「見捨てられる恐れの話」を書いたあとで、「見捨てられ不安」じゃなくて「見捨てられる恐れ」なんだな、とふと思った。

未来や過去への不安というよりも、ただただ未知を恐れていたのかもしれないなぁと、これを書きながらそう思った。

恐れや痛みと向き合うのは、谷底、洞窟のような谷底にいるような気持ちになって、未来や過去、という広がりのようなものがよく見えない感じになる。

「こうなったらいいなぁ」というようなことを考えるモードじゃなかっただけで、欲求や願望がなくなったわけでもないし、羨望がなくなったわけでもない。

「この世界に住んでいるわたし」は、何かを欲しがっているし、ああしなくちゃこうしなくちゃと忙しくすることもあるし、緊張していることもよくある。

たまたま最近は、洞窟のような谷底のようなところで休み、たまに洞窟の壁に映る影を見てはこわいと思ったり、神様のようだと思ったり、少し洞窟の外に出てマグマが噴き出てる様子を見たり、ということのほうが滞在時間が長かったかもしれない。

そうして過ごしていると、意外と、この洞窟のような谷底は、静かで平らで、ここで過ごすのは、なかなかいいかもしれない、みたいな気持ちになってきていた。

この谷底のようなところは、あまり人が多くなくて、ひとりで過ごしている時間が多いように感じられる。

その静けさの中で「わたしとわたしの”ふたりきり”」という言葉が思い出されたとき、「このわたし」を、正しさをかざして厳しく責めるのではなく、「ああしなさい、こうしなさい、ああしたほうがいい、こうしたほうがいい」と急かして動かそうとするでもなく、ただ、労り、慈しみたいという思いが滲んでくる。

しんとした静けさは、こわく感じることがあるけど、しんとした静けさから滲んでいる慈しみは、胸にあたたかさがじわじわと感じられる。

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