2018年からのセッションの中で、わたしが何より驚いていたことのひとつに、
「わたしは何もしていないのに、クライアントはどんどん変容していく」という現象がありました。
当時のわたしはまだ、どこかで「自分は責任をもって何かをすべき」「何かを教えたり導いたりすべき」という思いを抱いていたのだと思います。
だからこそ、「わたしは何もしていないのに」変容が起こっていくことに、ただ驚き、同時にその奥にある何か大きな力を感じていました。
そんな中でふと気づいたのは、わたしがしていることといえば、いつも同じことを繰り返し書き、繰り返し語っているということでした。
それは、まるで「リマインダー(思い出させるもの)」のようでした。
「わたしは、もしかしたらリマインドだけでいいのかもしれない」——
その考えは、胸の奥にくすぐったいような、静かな喜びをもたらしました。
自我の「責任を持って」「ちゃんとすべき」「こうしなければならない」という感覚が、するすると解けていくような中で、わたしはただ、ここにいる。
思い出すという行為そのものが、まるで祈りのような感覚として広がり、それを通して、わたしはますます透明になっていくのを感じていました。
この感覚と出会ってから、日常生活もなぜか「不思議なほど簡単」であるように感じることが増えていきました。
自分でニュースを見張っていなくても、必要な情報は、必要なときに誰かが教えてくれる。
忘れてしまうからとこまめにメモしていたことも、ふと「やめてみたらどうなるだろう?」と思い、やめてみても、何も変わらない。
「神経質なわたし」は、いつの間にか平和の中に溶けていき、何を食べても美味しく、何を着ても心地よく感じられる。
そして、そのどれもが、愛を通して、すぐそこに与えられている。
「これは問題だ」と思っても、すぐに「その問題の答えは、すでに答えられていた」ということを思い出す。
わざわざ探しに行かなくても、わたしが見つけたいと思っているものは、すでに与えられていて、
すべてが整い、すべてがうまくいっている——。
このような気づきのなかで、心に静けさが広がっていくのを感じました。
この静けさ、光、恩寵は、わたしの中にも、誰の中にもあります。
わたしは今、相手と共にそれを思い出すことを、分かち合うだけでいいのかもしれない、それが、この世界に生きるということなのかもしれない、と思っています。
無条件の愛の中で、わたしたちは本来ひとつです。この記憶を共に分かち合うことができますように。
たとえ言葉の形、具体的な事柄が違っていても、その奥に流れているものが同じ光であることを、共に思い出せますように。