振り返ってみると、統合期はひとつの独立した段階というよりも、「転換期と統合期」「統合期と奉仕期」が重なり合いながら続いていたように思います。
わたしの場合、「自分の中にあるジャッジメントやコントロールを真の意味で赦す」までには、長い時間がかかりました。
これは「今はもう赦し終わった」というものではなく、今もなお続くプロセスです。
境界線の回復とバランスを整えること、そして長いあいだ「傷ついた、疲れた」という感覚があったわたしにとっては、たっぷりの時間が必要でした。
この時期は、「真の愛と、愛のように見えるもの」「真の優しさと、優しさのように見えるもの」「真の力と、力のように見えるもの」など、“光に似た影”を見分ける時期でもありました。
「犠牲」「我慢」「わがままと自分軸」「好きにするということと心の声に従うということ」・・・
さまざまなテーマが次々と現れてきて、どれも興味深いレッスンに満ちていました。
わたしにとっては、痛みの中にもどこか“楽しい道のり”だったように感じます。
それは、混同や誤解が少しずつ解きほぐされ、癒していくプロセスです。
もちろん、今でも混同は起こります。
一度気づいたはずの古いマインドの習慣が、ふと顔を出すこともあります。
けれども、それが見えること自体が、すでに癒しのはじまりだと感じるようになりました。
統合期がやさしく感じられるようになるのは、エゴの働きを見つけたときに「なんとかしなきゃ」と力んだり、自分を責めたりする必要がなくなってくるときです。
「そうだった、すべてを愛で包むんだった。祈りの中で癒してもらうんだった」と思い出し、どんな心の動きも、そのまま光にゆだねられるようになるとき。
その変化は、まるで心の景色が変わっていくようでした。
「心の中でゾンビたちが叫び、しつこく追いかけてくるような状態」から、
「心という牧場で羊たちが静かに群れているような状態」へ。
やがて、心にやわらかな風が吹きはじめることを感じます。
ゾンビの群れに扉を閉めて抵抗するのではなく、祈りの中で羊たちをそっと抱きしめるような瞬間——
その感覚こそ、わたしがこれからも大切にしていきたい体験です。
そして、統合期が終わりに近づくころ、罪悪感や自信のなさが顔を出すことはよくありました。
「こんなことをしても意味がない」「向いていない」「もう、このままでいいや」
そんな気持ちになることもありました。
「可もなく、不可もなく。恵まれているし、幸せといえば幸せなのかもしれない。でも・・・」
その「でも・・・」の奥で、まだ名もない何かが静かに息づきはじめていました。
それが、次の段階——奉仕・表現期への入り口でした。
無条件の愛の中で、わたしたちは本来ひとつです。この記憶を共に分かち合うことができますように。
たとえ言葉の形、具体的な事柄が違っていても、その奥に流れているものが同じ光であることを、共に思い出せますように。