旅の途中、イエスはサマリヤという町の井戸でひとりの女性に出会います。
彼女は、人目を避けるように、昼のいちばん暑い時間に水をくみにきていました。
普通の人は朝や夕方の涼しい時間に行くので、彼女には人に知られたくない過去や、心の痛みを抱えていたのかもしれません。
イエスはそんな彼女に声をかけます。
「水を飲ませてくれませんか」
そして続けて言います。
「あなたが本当に渇いているのは、心の奥のほうかもしれません。”わたしが与える水”を飲む人は、もう渇くことがありません」
その言葉に、彼女は、自分が探していたのは、外の満たしではなく、愛されているという感覚、
心の源から湧く静かな水だったのだと気づきます。
※聖書の「サマリヤの女(ヨハネの福音書4章)」をわたしの方で要約したものです。
この物語を初めて知ったとき、わたしはサマリヤの女に自分を重ねました。
今この物語を思い出しながら「あなたがどんな過去を持っていたとしても、神の愛はあなたを見放さない」と言われているような気持ちになります。
そして、この物語は、「のどの渇き」は、外側の誰かや何かでなく、「”わたし”が与える水(聖霊、内なる愛、神、光)」によって満たされる、というメッセージを与えてくれます。
「のどの渇き」・・・以前のわたしは、欠乏や孤独、何をしても満たされないような感覚がありました。
「喜び」や「刺激」を求めて、一時的には満たされたような満足したような感じがするのですが、それはいつだって一時的で、そのあとには虚しさや惨めさが残ることは、当時のわたしにとってよくあることでした。
わたしが虚しさから何かを欲しているときの感覚をよく観察してみると、まさに「渇き」という言葉がぴったりでした。
「この物語は、わたしが感じていた渇きは、外側の誰かや何かでなく、”わたし”が与える水によって満たされる、というメッセージを与えてくれます」と書きましたが、
はじめて読んだときはピンときていなかったことも、今、思い出します。
それでも、漠然と「この話はわたしのためのものだ」というような感覚がありました。
同時に「イエスが与える水ってなんだろう?」「イエスは今ここにはいない」「だからイエスが与える水は、今ここにはない」という自我の思いが湧き出てきていたことも、今ありありと思い出されます。
当時のわたしにとっては「渇き」のほうがリアルであり、大問題であるようにも思えていて、「”わたし”が与える水」と聞いても、ピンときませんでした。
「それは、どこか、遠いところ、高いところにあって、わたしからかけ離れたもの・・・」という思いを言葉にしないまま、思い込んでいたようです。
この「渇き」は、わたしの欠乏や孤独や問題を証するものではなくて、愛を思い出したいという魂の呼び声として聴こえます。
ここでわたしたちの心が本来ひとつの心として響き合い、共に神の源泉を思い出す場でありますように。