神へのオープンレター/祈りを掲載する理由

祈りをブログに掲載している理由、以前祈りを掲載したり消したりしていた理由について、今日はブログを書いてみたいと思います。

「祈りをブログに載せたい」と思ったとき、心の奥に小さな葛藤がありました。

聖書の中のイエスの教え(マタイによる福音書 6章5〜6節)が急に思い浮かんできて「祈りは人に見せるものではないのでは?」と思っていたこともありました。

それでもなお「祈りをここに置きたい」と思う気持ちは消えませんでした。

そして、長いあいだ、わたしの中には「祈り=危険」「意図をもつ=罪の発動」という誤解と恐れが根づいていたようでした。

この誤解された感覚としての恐れはこの数年間、何度も何度もあがってきて、そのたびに光に捧げてきました。

理屈では誤解だとわかっていても、純粋な恐れのエネルギーとしてあらわれているようなことがありました。

何かを望むことは神の意志に逆らうことのように思え、意図を持つことや祈ることさえ、自分を罰するきっかけになる・・・そんな危険性があるように感じたこともありました。

そして、ブログに祈りを掲載しては消す、ということを繰り返していた時期もありました。

それでもなお、「祈りをここに置きたい」という思いは消えませんでした。

それでもなお「祈りをここに置きたい」という思いが消えない・・・

「なぜ祈りをここに置きたいのか?」・・・

その理由を自分に問いかけても、明確な答えは出ません。

ただ、祈りを言葉としてここに残すと、なぜか心は静まり、落ち着くのです。

その静けさは、自我の満足ではなく、もっと深いところからやってくる安堵のようでした。

神にゆだねるということ

やがて気づいたのは、祈りを公開したいという思いの奥には、「誰かに見せたい」という意図ではなく、分かち合いたいという自然な衝動があったということです。

そして、ブログに投稿するたびに、わたしの中に静かな力が流れるのを感じました。

その力を内に感じながら、「祈りそのものが、すでに神の応答」という感覚が訪れたのです。

与えることと受け取ることは、真理においてはひとつである。(中央アート出版 奇跡講座 W-pI.108)

祈りを分かち合うことは、神の愛をより深く受け取る行為でもあると、日々、感じています。

それは「発信」ではなく「献げる」こと。

「証明」ではなく「信頼」のあらわれ。

わたしにとって、祈りをここに置くということは、誰かに示すためではなく、神が導くままに光を届けてもらうためにゆだねる行為であるように今は感じています。

光を共に思い出すために

祈りを公開することは、もしかしたら「わたしは一人ではない」と思い出す行為なのかもしれません。

祈りは個人的なもののように見えるときでも、その本質は「心の一体性」を思い出すことにあります。

だからこそ、わたしが祈りを分かち合うとき、それは同時に、あなたの中の祈り、心の奥の深いところの祈りとも、響き合っているような感覚を受け取っています。

そして、それはたったひとつの愛と静けさに戻るためのひとつの道だと感じています。

祈りを共有するということ

こうして祈りを分かち合う中で「神へのオープンレター」という感覚が生まれてきました。

同時に、胸の奥が少しくすぐったくなることもあります。

子どものころ、祈りながら「神さまへの内緒話みたい」と思っていたこと。

そして、ずっと前に「祈りとは神さまへのラブレターのようなもの」と教わったときのこと。

そんな記憶もよみがえってきます。

祈りをブログに掲載することが、ただ「このように祈ったわたしがここにいます」というかたちの現れであり、祈りを通して自己を透明にしていくことへと導かれますように。

祈りを形としてこの世界に置くことで、心の中にあった「隠す」「閉じる」という感覚が少しずつ溶け、「ありのままに差し出す」ことへの安心へと導かれますように。

「個人としてのわたし」ではなく、「神と共にいるわたし」が語りますように。

聖霊

この祈りが、あなたの導きとひとつでありますように。

この祈りを通して、あなたの光が自然に届くべき場所へ届きますように。

わたしの意図が混ざるなら、あなたの愛で清めてください。

この祈りが、わたしのためにも、すべての兄弟のためにも、あなたの平和の現れとなりますように。

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