これまでの人生を振り返ると、「奉仕・表現期への移行」も、何度も訪れていたように思います。
けれども長いあいだ、「わたしも誰かの助けになりたい」という思いと、「そんなことを思うのはおこがましいことだ」という思いが、心の中でせめぎ合っていました。
「奉仕」や「表現」という言葉に対しても、わたしの中には大きな誤解がありました。
それらを特別なことのように見上げたり、反対に「自分にはふさわしくない」と遠ざけたり。
そうした偏った思い込みを握りしめたまま、深いところでブレーキを踏み続けていたようにも思います。
「奉仕・表現期への移行」のときというのは、不思議なもので、
葛藤や恐れ、ブレーキの感覚が強く出てくる一方で、
外側の出来事や出会いを通して与えられる呼びかけ(外的召命)、そして心の奥から静かに響く導き(内的召命)が、まるで溢れるように訪れていました。
そのときどきで、シンクロニシティやサイン、
自分を超えた大きな働き、
理屈では説明できないけれど確かに聖なる気配を感じる出来事が、いくつもありました。
今振り返ると、それらはどれも一貫していて、まるで道の途中に置かれた光の目印のように感じます。
けれども当時のわたしには、それが何を意味しているのか、はっきりとはわかっていませんでした。
受け取っていながら、受け取っている自覚がなかったのです。
心の奥では、葛藤や恐れから、行きたい方向へブレーキを踏んでいるような感じ。
扉を閉ざしているような感覚。
そうしてまた、転換期や統合期の気づきへと戻り、そこからさらに深い癒しが進んでいく——
そのような循環を、何度も何度も繰り返してきたように思います。
そして2018年頃からの活動を通して、少しずつ「奉仕・表現」というものの意味が内側で変わっていきました。
今思えば、あの流れ、そしてこれまでの流れのすべては、自分がしていたのではなく、聖霊が為していたのだと感じます。
けれども当時のわたしには、それがよくわかっていませんでした。
自分がしているはずなのに、自分ではないような流れ——
ブログ、セッション、人との出会い——が次々と展開していくことに、ただ驚いていました。
与える側であるはずなのに、いつも与えられている。
癒す側であるはずなのに、いつも癒されている。
そんな感覚が絶えずありました。
自我が「わたしがやっている」と信じていたものが、実は「わたしを通して働いていた」という理解へと変わっていく——これは自己消失ではなく、自己の本質(聖霊との一致)への回帰です。
また、「与えているようでいて、実は与えられていた」「癒しているようでいて、癒されていた」という体験も、奇跡講座で語られている”与えることと受け取ることは真理においてひとつである(奇跡講座 中央アート出版 W-pl-108)”という真理の実感にほかなりません。
その中で、「こんなにも与えられている。わたしは何もしていないのに」という不思議な感覚と共に、理由のわからない後ろめたさを覚えることもありました。
けれども、その後ろめたさも自然な通過点だったのだと今は感じます。
自我の一部がまだ「努力」や「功績」など、これまでの価値観で世界を測ろうとするために、恩寵的な流れを「自分がしていないのに成果がある」と感じるときに、“理由のない罪悪感”を呼び起こすことがあるということだったのです。
でもそれは「わたしがしなくても、神の愛は働いている」という真理に心が慣れていく途中の、とてもやさしい調整期間だったのだと思います。
奇跡講座に出会い、“本当のわたし”とは何か、自我とは何かを学びはじめたことで、少しずつその構造が見えてきました。そして、それによって、わたしの心はより深く安心していくことを感じていました。
すべては聖霊によって導かれていたのだと理解が深まるにつれ、それまでぼんやりと求めていた「共に思い出す」「分かち合う」「共に歩む」という願いが、はっきりとした形を帯びていきました。
そして今、こうして言葉にできることにも、静かな喜びを感じています。
その喜びは、次第に「語る」「教える」ことを超えて、ただ“在ること”そのものに向かっていきました。
それが、次の段階——透明化・単純化期のはじまりでした。
無条件の愛の中で、わたしたちは本来ひとつです。この記憶を共に分かち合うことができますように。
たとえ言葉の形、具体的な事柄が違っていても、その奥に流れているものが同じ光であることを、共に思い出せますように。