問題(自分が問題だと思っていること、外に見ている問題)や、願い(叶えたいのに叶わない願い、苦しみを伴う願い)があるとき、
それが「本当の問題」だったらその問題はすでに解決されていること、すでに完璧な答えが与えられていることがわかるし、「本当の願い」だったら、すでに与えられているということがわかります。
※心のプラクティスの中では「問題は外側にはない」ということに心を開いていく、何度も思い出していく、ということをします。
「問題は外にはないらしい」
「自分が問題と思っているものは、実は問題ではないらしい」
「自分が願いだと思っているものの下に、自分の本当の願望というものがあるらしい」
「全然納得もいかないし、よくわからないけど、心にすべての力があるということを思い出すとき、それをわからないまま心を開いていくことが大事らしい。その可能性は100%否定できないし、もしそうだったとしたら?」
たとえばですが、こんな感じで、自分が自分の心からの幸せのために、そうおもうことを選んでみることが、スタート地点です。
そして、あるとき、この地点は、とても馴染み深いものだったということに気づくということもあるかもしれません。
そのあとは「一生すべての問題が解決され、死ぬまで絶対的に物理的に思い通りにいくことが保証されましたとさ。めでたしめでたし」というわけではなく、地点に戻り続ける練習で、
このような心の状態で生きるということは、おそれが奇跡に戻され、自分の想像、想定をはるかに超えた幸せを与えられつづけてくれているという体験へと導いてくれます。
書きながら今思い出すことは、祈りを習慣にすると決める以前(祈ったり祈らなかったりしていたとき)、
ひさしぶりに「祈って尋ねてみよう」と決めてみると「問いが立てられないし、何を求めたいのかもわからない」ということに気づいたことがありました。
もうちょっと具体的にいうと、問いを立てようとすると他人軸みたいな問いの立て方になっていたのです。
「まともに問いが立てられない」
「わたしは、これについて聞きたいと思っています、助けを求めています・・・ということさえ、言葉にできない」
「で、結局、わたしは、何を望んでいたんだっけ?(何も望むことがないほど満たされているなら、こんな気持ちになっていないだろうというのはなんとなく感じる)」
という状態になってしまっていることに、自分でも驚いていました。
しかし、わたしは心の力、内なる力との結びつきを、どうしても受け入れたいと思っていて、
なんとしてでも、尋ねて、教えて、導いてほしい、と思っていたので、
「問いを考える」「自分の本音と向き合う」「心の置き方と向き合う」ということをしていました。
そうこうしているうちに「他人軸、外側基準」や「コントロール、操作、ジャッジメント」がじわじわと、優しく癒されていっていたことを、今、感じます。