「本当の自分自身を思い出したい、自分自身の感覚、五感、六感すべての感覚をのびのびと感じて、生きている喜びを感じたい、自分らしく生きたい、自分自身の自然体を受け入れて、それがのびのびと表現されるままにしたい」
と思うときに、今、思い出したいこと。
それは、誰かがあなたのことを「あなたってこういう人よね」「あなたってこういうところがあるわよね」と言っていたとしても、それはあなたではない、ということです。
「あの人もその人もそんなふうに言っていたわよ」とたとえ言われたとしても、それはあなたではありません。
誰かが言ったことを「本当のこと」のようにして捉えて、取り込んでいくと、どんどん、窮屈で、遠慮がちな、縮こまった感じがしていくる、ということがあるかもしれません。
これは「あなたはこんな人と、誰かがあなたのことを語るとき」というのは、その人の物語を通して見て、語っているということです。
「あなたはこんな人」というのは、その人の物語の中ではそういう設定になっているかもしれませんが、だからといって、それを、自分がまるで真実のようにして受け入れる必要はありません。
それを自分が真実のように受け入れてきたことに、まず、気づいていくことは、大切なことです。
「あなたはこんな人と、誰かがあなたのことを見るとき」というのは、その人の物語を通して語っているとき、
「あの人がわたしのことをこのように言ったから、わたしはそういう人間なんだ」ということをまるで本当のことのように受け止めていると、それはますます本当のことだと感じられてくるでしょうし、「その証拠」はいくらでも見つかるでしょう。
それで「この心」は何を感じているでしょうか。
「相手の物語」が(そして「自分の物語」も)、それ自体がいいとか悪いという話ではありません。
「外側の誰かが言っていたことで、自分にくっつけてたままにしているもの」というのは、自分の中にあった自己否定やおそれの磁石によってくっついたままになっている、ということがあるかもしれません。
このように、自分ではないものをたくさんくっつけていると、心に重荷や疲労感や閉塞感や緊張感や無力感を感じることがあって、
この心のストレスを解決する方法は、引っ越しでもないし、結婚でもないし、転職でもないし、たくさんのお金を所有することでもないし、仕事が大成功することでもないし、美しい見た目になることでもないし、サプリメントを飲むことでもないし、相手が何も言わなくなることでもありません。
けれども「くっつけたままにしている、わたしだと思っていたわたしじゃないわたし」から心を解放していく中で、「具体的な行動」は自然と、自ずと、為されるものです。それが「やってみよう」という決断であっても「離れよう」という決断であってもです。
そして、その行動は「為される」ので、調和が取れたものであり、スムーズに運ぶものなのかもしれません。
「わたしが誰かのことを、あの人はこんな人と見るとき、わたしの物語で見ていた」ということは、わたし自身、内面を見て、奇跡を求め続ける中で、このことが感覚的に明らかにされていっていった、というような感じがしていますが、
自分自身の内側と向き合う中で「誰かが言ったことを、本当のことのようにして持ち続けている」ということを見抜いていくことも大切なことです。
自分自身を振り返ってみて、わたしが誰かを”見る”とき、わたし自身の物語や価値判断から見るのではなく、心で見たい、神の愛のマインドと共に見たい、と思っています。
そのためにできることは、愛以外の考えを疑問視し続けていくこと、それを光のもとへと運んでいくことです。