愛から生じていて、愛に還されるために

昨日もオンラインクラスでの素晴らしいひとときをありがとうございました。

深い癒し、ヒーリングを受け取らせていただきました。

昨日のオンラインクラスで「わたしの10代の頃の話」をする流れになりました。

様々な見方や解釈ができるでしょうが、ある特定の解釈でいうならば「10代の頃のわたし」はメンヘラ女子だった、と言えるでしょう。

当時、外側にあるいろんなものが見えていて、同時に内面にあるものもよく見えていました。

あの頃、わたしは、自分の中に闇を見ていたことを、今でもよく覚えています。

自分の中に闇を見て、それとどう向き合えばいいのか、どう扱っていいのか、わかりませんでした。

当時のわたしは「よくなりたい」と強く思っていたこともあり、最初のうちは専門家も含めた大人たちに話していたこともありましたが、あるときから話すことをやめました。

最初は、自分の内側に闇をみて、ギョッとして「きっとこんな想念を持っているのは、この世界で自分だけ」というような孤独感、孤立感を感じていました。

そして、なんとかしよう、かき消そう、振り払おう、と努力をしてみます。

何度も「自分は大丈夫だ」と言い聞かせてみたりもしました。

でも、そんなふうにすればするほど、その闇の想念は大きくなる感じがするし、疲労感、倦怠感が強くなっていきます。

それから、しばらく経ったあるとき。

わたしは、楽しい日々を過ごしながら、世界は思ったよりもはるかに優しいと感じながら、闇がいなくなっていることに気がつきます。

でも、そのときのわたしは、あの「闇」を嫌っていて、あれは自分の一部だという感覚を残したままでした。

だからなのかなんなのか、自分のことも好きになれなかったし、自分自身に寛げなかったし、誰かとの距離感が近くなりそうになると「わたしの闇がばれてしまい、この関係性は壊れてしまうに違いない」というようなことを感じていました。

しばらくして、また「いろいろなことがうまくいかなくなるような感じ」になって、ひとりで閉じこもるようになると、また、闇が出てきたのです。

10代の頃からちっとも進歩していないどころか、闇が進化しているように感じられて、わたしは落ち込みました。

けれども、心やスピリチュアルについて学びつづけていたので、心が癒されるために、この闇を一度よく見てみよう、と思いました。

目を逸らさず、気を散らさず、話を展開させず、動かさず、心が癒されるためという目的のもとで、この闇をよく見てみることにしたのです。

そのとき気づいたのは、わたしは、自分が自分の中の闇を攻撃したくて仕方がないようだ、ということです。

「心に寛ぎを受け入れるよりも、闇を攻撃したくてしかたがない」ということがよく見えてきました。

しばらく経ったある日、なぜか急に、過去のすべて・・・自分も家族も関わる人々、問題視していたこと、あらゆる経験、すべてが、愛おしいような、ありがたいような、なんともいえないような気持ちが心に広がりました。

「すべてが愛おしい存在なので、責められるに値することは、本当にひとつもない」というような感覚でした。

「認められたくて、愛されたくて、表現をしたくて」ということの方向性が間違っていたということはあったとしても、その間違いが責められるようなものかといえば、全然、そんなことはなく、ただ愛おしい。

すべての道のりが祝福されていて、なにかとても素晴らしいことのために起きたことだったのではないか、という、確信に近いような、そんな感覚とひとつになったのです。今でもありありと思い出せます。

そして、2022年「感謝が溢れ出てきて、枠が外れたようになり、すべてと共に喜びで振動しているような感覚」になっていた頃、わたしは奇跡講座に出会いました。

そこから、しばらくの間、抵抗、闇が上がりつづけてきていました。

このとき、何度も何度も思い出していたのは「闇がわたしなのではない、自我がわたしなのではない」ということです。

わたしは自我ではないらしい。わたしは闇の想念ではないらしい。

”本当のわたしは愛そのものらしい。神と、そして、すべての兄弟姉妹とひとつの、神の子らしい。このことを受け入れたい。”

そうして、闇を光のもとへと運び、訂正を求めるなかで、わたしの中で「闇というものの威力、魔力、深刻視されるにふさわしいような何か、その存在感」が、だんだんと、小さく感じられるようになってきました。

そして、その自分の中の闇を見ながら、それが「悪魔的」とか「邪悪」というよりも、ただ単に狂っている、と感じるようになりました。

以前と異なるのは、このプロセスが意識的であったということです。

今でも、まだ、その道のりの中だと思っていて、これからも出てくるかもしれない・・・なぜ「もう全部でました終わりました」と書かずに、このような書き方をするかというと、どちらでも同じのような感じがしているからです。

「目覚めることは決まっている、目覚めている、目覚めつつある、もしかしたら、今世では目覚めることなく来世になるかもしれない」これがすべて同じような感じに感じられていて、

わたしは「そばにいる人々、出会う人々と共に目覚めつつある」という言い方をした方が、より深い寛ぎを心に感じられるので、このように表現しています。

「目覚めたら幸せになる」というのは「自我の条件付け、目の前にぶら下げたにんじんのようなもの」です。

そうではなく、スピリチュアルな目覚めとはひとつの生き方であり、道を歩むということであり、その道を楽しめるということであることを、忘れないようにしたいと思っています。

話が逸れてしまいました。

わたしは闇に「存在感や力のようなもの」を見ていたことがあって、

今は、ただシンプルに「自分が闇と共に建てたと思っている計画よりも、全知全能の神様の計画の方がいいに決まっている」ということをふつうに思うので、このことを思い出しつづけたいということと、

またなにか狂ったような選択をしたときには、妥協なくゆるしつづけたい、ということを思います。

本当はすべてのものが愛から生じていて、愛に還されるためにここにある、というような、今そんな感覚です。

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