「葛藤ってなんだったっけ?」

「心の苦しみや葛藤は、二つの相反する思考体系を同時に望むことで生じている」

「そうかもしれない。なんだかそんな気がする。なぜかよくわからないけど、そんな気がする。内側をよく見てみよう」

わたしは、以前、祈るときに「霊性、心、身体、すべてを・・・」という言葉を使うことがありました。

そのときは、その言葉が安心して、しっくりしていたので、そうしていました。

いつからだったか、しっくりこなくなりました。

しっくりこなくなったのは、ある意味、祈りが届いていたから、答えられたから、受け取れたから、かもしれません。

「心も身体も」「愛も恋も」

この二つを同時に望む”気配”のようなものを、微かにでも残さない方が、今のわたしにはしっくりきています。

愛と恋、神と自我、真理と幻想、聖霊と分離・・・どちらも望むから、心が苦しかったのです。

ほんとうにそうでした。

けれども「愛(神の無条件の愛)だけを望む、望みます」というのは、

本気を出したいと心から思ったとき、実は、こわいし、実は、ためらう気持ちがあったんだ・・・ということと、向き合うことになりました。

それは、まるで「一か八かの大勝負のギャンブル」のようなヒヤヒヤ感でした。

わたしは、ギャンブルはしたことはないけど、たぶん、こんな感じなんじゃないか、と、何度も思いました。

「勝てば大富豪かもしれない。でも、負ければ、すべてを失うぞ。本当にいいのか」と、自我が「タイトルを忘れた映画のワンシーン」を脳内に上映しながら、耳元で「問いかけて」くる感じ。

けれども、その道のりは、今思えば、確かに神様に導かれていて、ところどころで「大丈夫ですよ」ということを、わかりやすく、伝えてくれていました。

そんなふうにして、これからも、一歩一歩、聖なる存在との信頼関係に心を開いていきたいです。

そのために、自分の中に出てくる「自我の恐れの想念」を、これからも疑問視して、”調べて”いきたいと思います。

自我は裏切りますが、無条件の愛は裏切らない、なぜなら”ひとつ”だから、裏切りようがないから。

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