前回からのつづきです。

「相手が(自分に対して)音信不通だ」を例にします。
「相手が(自分に対して)音信不通だ」
→「自分が相手に音信不通だ」としたら?「自分が自分に音信不通だ」としたら?
と問いかけてみる
ということを前回のブログで書きました。
ここで、もうひとつ、とても大事なことがあります。
「相手が自分に音信不通だ」
というときに、自分はどんな感情を感じているかに形を与えてみる(言葉にしてみる)ということをしてみます。
ときどき「いや、別に、特になにも感じていません」という方がいらっしゃいますが、何も感じていないわけがないのです。
本当に何も感じていなかったら「相手が音信不通だ問題(相手から連絡がほしい願望)」を作り、何日も考え込んだり、誰かに話を聞いてもらったり、このことについての心やスピリチュアルな意味を調べようとしたり、しないはずです。
そして、「相手が自分に音信不通だ」というときに、自分はどんな感情を感じているかに形を与えてみる(言葉にしてみる)ということは、自分が自分の本音を一つひとつ認めていく練習でもあります。
これは「玉ねぎの薄皮を剥くようなプロセス」ですので、一番最初に出てきた感情や考えなどを「ファイナルアンサー」のように扱う必要はありません。
その一番奥に”本当の答え”、”愛からの何か”があります。
パートナーシップだったり、結婚だったり、結婚して子供がほしいということだったり、そうじゃなくても心の平安や幸せや喜びを感じられる関係性だったりが、願いとして胸の中にある、という方たちとのセッションを通して・・・
「多くの人が理解しやすい言葉」で、自分の感情を言葉で表現するように少しずつ練習してみることは、まるで天使たちから祝福されている幸せな花嫁修行のようだ、とわたしはよく思っていました。
感情のリストなどを使えば、「このときの感情を言葉にするならなんだろう?」ということを見つけることは、別に難しいことでもないですし、意外と簡単です。
「彼が自分に対して音信不通だ(とわたしには見えている)」。
そして「このことについての感情を、言葉にしてみるなら、どんな感じだろう?」というのを、感情のリストなどを眺めながら、探してみる感じです。
「モヤモヤ」「怒り」「悲しみ」以外にも、なにか、見つかるかもしれません。
「複数の感情」が混じっている、ということもあるかもしれません。
このように、自分自身に繊細な優しさを与えていくということは、本当の意味で贅沢なひとときです。
そして、このように内側を見ていくということは、その目的によって、心の癒し、幸せ、本当の自由へと向かうものです。
これを一つひとつ、一日一個、最初は一週間坊主の繰り返しでも、もう、十分すぎるほどなのです。
そうして、少しずつ「自分が自分に」対して、
このことについてどんな感情を感じているだろう?
わたしは何を感じているだろう?
と問いかけて、そのままを認めていくうちに、いつの間にか「ネガティブな感情たち」が落ち着いていって、本当の感覚、本当の自由とひとつになっていく。この繰り返しは、とても楽しい繰り返しです。
その繰り返しの中では、まるで神様のさまざまな側面を見せていただけるような感じがしていて、同じことの繰り返しのはずなのに、いつも景色が異なるような感じがある、と、わたしはよく感じます。
どんどん、深い深いところに落ちていくその感覚は「重い布団」のような心地のよさがあります。
「重い布団」というのは、小さい頃、おばあちゃんの家に泊まりに行くと「やたらと重い布団」があって、寒い冬に、この布団を被せてもらうのが、すごく気持ちよくて、それを思い出しながら書いています。
「うわ〜、重い布団だ〜」と思いながら、その布団の重みを感じ、重力にゆだねていると、いつの間にか朝になっていました。