もやもや。ざわざわ。違和感。
嫌な予感。悪い予感。
弱さ。影。闇。
ずっと前から、「他者」のこういった話を聞いていると、わたしは、その方に対して、光の予感のような、聖なる存在から呼ばれているような、そういうものを感じていました。
その方の中にある偉大なる光との結びつきを、思い出そう、受け入れようとしているような。
「かわいそうに(それで母性がくすぐられて助けてあげたくなる)」というよりも、力とか、強さを、感じる感じ。
その力や強さは、「わたしの自我の言い方」でいうと「脅威」と言ってもいいほどだけど、でも、わたしは、それが聖なるものからのもので、あまりにも優しく、慈しみ深く、ただあるだけで、どこまでも届き、闇を一掃してしまうような明るさであるということも、知っています。
それは、この世のものとは思えないほどのものなので、「わたしの自我の言い方」をすると「脅威」となる。
このことを、わたしの中で、曖昧にしたままでいたとき「自分はなんだかよくないことを思っているんじゃないか」というような、漠然とした罪悪感のようなものがありました。
だから、こうして、言葉に書いてみることにしました。
曖昧なものを明確にすることを、最近、大事にしたいと思っています。
もやもや、ざわざわ、違和感も、
嫌な予感、悪い予感も、
弱さ、影、闇に直面してどうしようもなくなっているときも、
「足りない」と思っていたことが満たされていることを知るときで、
「ない」と思っていたものがあったことを受け入れるとき。
「ない」と思っていたものがあったことを、わからないまま、受け入れるとき。
「光からのもの」に、自分で考えず、わからないまま、頭で理解できないまま、心を開いて、信頼して、受け入れるとき、天のものを地におろすための扉を開くような感じ。
その扉に何重にも鍵がかかっているようなときは、”兄弟”が鍵を持っている。
聖なる存在から「試験の答えをイヤホンを通して聴きながら」、「自分には試練にしか見えなくなっているもの」の回答用紙に向き合っていく感じ。
聖なる存在が「(1)の答えはC」といえば、「C」と書く、みたいな感じ。
だから、ある意味、「ちょいわる」みたいな感じで、「大真面目なわたし」は「なんということを!」と大騒ぎして、自分でなんとかしようとする。
聖なる存在が「(1)の答えはC」と言ってるのに「A」と書こうとする。そのようにして「ちゃんと自分で考えました」アピールをしようとする。(自我様に対して)
聖なる存在が「(2)の答えはB」といえば、もう、おそろしくなって、イヤホンを投げ捨てようとする。
なぜなら「真面目なわたし」でいたいから。
「悪いことなんて、してないですから」とわざわざ、言いたいから。
なぜ、わざわざ言いたかったのでしょう?(このわたしの「なぜ?」についての答えは、奇跡講座に全部書いてあった・・・)
そのように「イヤホンから流れてくる聖なる存在の答え」を聴きながらも、それに対抗して、悪戦苦闘して「もうちょっと、苦しんでいたい」ということが、わたしにはありました。
「鏡の実践」は「本当は自分の手柄なのに相手の手柄にしたままのもの」を、取り戻していくことでもあります。
自覚ないまま、意図に反して「泥棒(=自我、恐れの想念)」や「詐欺師(=自我、恐れの想念)」に預けたままの鍵を取り戻し、天国への扉の鍵穴に差し込むようなもの。
天国から流れ出てくるものは、無限であり、形がないので、壊れることや切り離されることは、不可能。
天からのもは、そうして、地におろされる。