とても長い間「自分自身の中にある愛・心の声・インスピレーションへの疑い」を赦しつづけてきたように思います。
今日受け取ったのは「自分が自分の中の愛・心の声・インスピレーション」を「わたしがジャッジメントできる」という前提にいたということであり、そして、それこそ「正しくありたい欲求」ということでしかなかったんだな、ということです。
「正しくありたい」と望むことが、どんなにこの心を苦しめてきたか。
「正解で武装して、人々に”良し”というジャッジメントをされたい」という密かな願望が、どんなにこの心を苦しめてきたか。
わたしは今、心に、すっきりとして、凪のような感覚を感じています。
この「自分自身の中にある光を疑う」という道のりの中で、わたしは癒されつづけて、解放されつづけてきました。
そして、「真の信頼」ということを、もしかしたら、学ばせてもらっているのかもしれない、と思います。
というか「疑う」という自我が、しっかりと意識に上がってきてくれているからこそ、「真の信頼とは?」について学べる機会だったんだ・・・。
わたしは、自分自身の中にある心の声・インスピレーションが信じられないとき。
毎日、自分自身と向き合いつづけてきましたが、それでも、わからなくて、こわくなるようなことがありました。
そんなとき、いつだって、助けてくれたのは「神様 この方の神聖性とつながらせてください。この方の中にある癒しの光を受け取らせてください」「どうぞ一緒に癒しに入ってください」という祈りでした。
「心の声を疑う」のが長かったおかげで「この方の中に神がいる」ということを「本気で祈る」の「本気」というところと何度も向き合う機会をいただきました。
これは本気なのか?それとも「わたしが正解でありたい」のでそう祈ってるのか?
気が済むまで考えて、あるとき、わからないとやっと力を抜いて、祈る。
聖なる存在と共に自分自身と向き合うこと、そして祈りは、「どんな方の中にも神がいる、しかも、今この心の中にいる」ということについて、わたしに様々な側面から、解放、奇跡(自分が間違っていて本当によかったです)を与えてくれたように、今、感じています。
目の前の「AをしたほうがいいのかBをしたほうがいいのか、それとも何もしないほうがいいのか」ということや、
自分の中に見つける「Aをしてみたい」「休みたい」などの声。
これは表面的にみると外的な選択肢で、外的な選択肢は本当はどれも「絶対的に確か」とは言えず、
外的な選択肢だけを頼りにするなら、どれも失敗の可能性があり、どれも死に行きつく・・・
自分の「考え」を書き出し、問いかけ、調べていく中で、わたしはあるときこのことを見ました。
いずれにせよ、失敗の可能性があり、いずれにせよ死の可能性があるなら・・・この心はどちらを選びたいと言っているのだろう?
けれども、
心が愛を(神の愛、無条件の愛)を選ぶならその愛だけは決して自分を裏切らない
外的な何かは裏切ることがあっても、心の中にある完全なる愛は裏切らない
これは、わたしにとって「希望の光」のようなものであったはずなのに、強い抵抗の中で、いきなり「わからない」となったのでした。
この「わからない」には「わかりたくなんかない。わたしがわかってるもん」という思いがありました。
目の前の「AにするかBにするか、それとも何もしないのか」ということや、
自分の中に見つける「Aをしてみたい」「休みたい」などの声。
これは表面的にみると、外的な選択肢で、外的な選択肢は、それを正直によく見てみるならばどれも「絶対的に確か」とは言えず、外的な選択肢だけを頼りにしているなら、どれも、確かと不確かの行ったり来たりをしながら、行き着く先は死。
・・・これが、何度も何度も心を見るなかで、身に沁みてくる。
いずれにせよ、失敗の可能性があり、いずれにせよ死の可能性があるなら・・・心の感覚を、自分自身を、信頼してみたい。
心が愛を(神の愛、無条件の愛)を選ぶならその愛だけは決して自分を裏切らない・・・
外的な何かは裏切ることがあっても、心の中にある完全なる愛は裏切らない・・・
どんな状況の中でも、聖なる存在だけは、その状況を心の癒し、奇跡のためにアレンジできる・・・
「Aをしてみたい」という心の声に従っても、従わなくても、本当は、何をしていたとしても、していなかったとしても、いつだって、心の中には大いなる存在の愛がある。
何かをしたとしても、しなかったとしても、大いなる存在の無条件の愛の中で愛し愛されている。
どんな状況の中でも、必ず、出口というか光への入り口があり、それを自分は、なんらかの形で必ず見つけることができる。
「休みたい」という声に、「ダメだ」「休むのがこわい、これからどうするの」とジャッジしたまま従わなくても、「休みたい」という声に従っても。
「Aをしてみたい」という声に、「時間がない、お金がない」「失敗したらどうしよう」「みんなからどう思われるか」と外側基準・他人軸を選んだまま従わなくても、「Aをしてみたい」という声に従っても。
本当はいつだって無条件に愛されているし、聖なる存在ならどんなことでも、解放、癒しの機会に使うことができる。
いずれにせよ、失敗の可能性があり、いずれにせよ死の可能性があるなら・・・心の感覚を、自分自身を、信頼してみたい。
もし、これが最悪、恐れからの声、自我の声だったとしても、聖なる存在だけは、その状況を心の癒し、奇跡のためにアレンジできる・・・