わたしがすること、神様がすること

神様

わたしは、また「自分がやった」という勘違い、傲慢さに、心を与え、自己を攻撃しようとしていたことに気付けないでいたようです。

けれども、こうして立ち止まり、あなたの優しい癒しの光を受け取らせていただいたこと、導きを、ありがたく思います。

わたしは一歩退いて、あなたに導いてもらいたいです。

わたしを通して、あなたが為すことを、どうぞ、見せてください。

あなたが為すことを「自分が為した」と勘違いして、自分自身やあなたを攻撃しようとするこの狂気を、あなたの優しい癒しの光で照らして、癒してください。

そして、すべての行いの中にあなたの働きが宿り、あなたの行いの中で、わたしとすべての兄弟姉妹たちを、あなたが救ってくださることを、本当にありがとうございます。

わたしはなにも知りません。わたしはなにもわかりません。わたしは判断などできません。このことを思い出し続けることによって、わたしは愛し愛する能力しか持たない、幸せな神の子であるということを思い出したいです。

わたしは神ご自身の聖なる子であり、わたしに苦しみはありえず、痛みを被ることもありえません。

損失を被ることはなく、救済が求めることで、わたしにできないことは何もありません。

聖霊がそこにいて、わたしを通して働いてくれることについて、わたしは今、心からの感謝を思います。

ありがとうございます。

※私は神ご自身の聖なる子である。「私に苦しみはありえず、痛みを被ることはありえない。損失を被ることはなく、救済が求めることで、私にできないことは何もない。(奇跡講座 W-pI.191.7)」だけ、ほぼ丸ごと引用でしたので、記載したいと思います。

おはようございます。

今朝の祈りでした。この祈りは、何度も何度もずっと祈っています。

今朝の祈りによって、なぜか思い出したのが「T-2.VI 恐れと葛藤」そして「T-2.VII 原因と結果」でした。

恐れの訂正こそ、まさしくあなたの責任である。

恐れからの解放を求めるとき、あなたはそれが自分の責任ではないとほのめかしている。

そうする代わりに、あなたはその恐れをもたらした状況について助けを求めるべきである。

これらの状況は常に、分離していたいという気持ちが伴っている。そのレベルでなら、あなたは確かにそれについてなんとかすることができる。(奇跡講座 T-2.VI.4:1-5)

あなたは依然として恐れについて不平を言うかもしれないが、それでもあなたは今も自分自身をおそれさせることを続けている。

すでに指摘したように、あなたは私に、恐れから解放してほしいと求めることはできない。

私には、恐れが存在しないとわかっているが、あなたにはわかっていない。

もし私があなたの想念とその結果との間に介入するなら、存在する法則の中でも最も根源的な「原因と結果」の基本法則に干渉することになる。

もし私があなた自身の思考の力を軽んじるなら、私はあなたを助けることにはならない。(T-2.VII.1:1-5)

「一歩退く」「ゆだねる」「おまかせする」ということは、内観、赦しによって、この心を恐れから解放すること。そのために恐れをよく見ること、赦すこと。

わたしは、恐れの中で「この恐れに対して、わたしは無力である。神様なんとかしてよ」というような意味合いでの「神様助けてください」という「祈り(というか要求というか)」をしていた時期が、長くありました。

この長い間の「習慣」を、もう、長い時間をかけて、祈り、自分が自分に、思い出す時間を、意識的に取るようにしています。

この世界でわたしがすることは、もう、赦し、祈り、しかないんじゃないか、というような思いが、たまに、浮かんできます。

今朝は、昨日今日の祈りによって、感謝、じんわりとしたあたたかさ、落ち着き、平和・・・そんな心の中にいて、この心の中で「T-2.VI 恐れと葛藤」そして「T-2.VII 原因と結果」を思い出し、もう一度読むことができたことも、ありがたく思います。

自分が「恐れと葛藤の中」にいる中で、「T-2.VI 恐れと葛藤」そして「T-2.VII 原因と結果」などを読んでいたときは、もう「奇跡講座から厳しくジャッジメントされて、重箱の隅をつつくようにして誤りを指摘され、怒られてるような気持ち」になっていました。

そのとき、厳しい怒りと裁きの「自我様」にお仕えしていたのは、わたしでした。まさに、自分が自分にしていたことを、奇跡講座に見て「何を言ってるのか、わかんない!(心の扉を閉める感じ)」と、思っていました。

今日も話が全然、予想外想定外の方向でした。ありがとうございました。

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