奇跡を目的とする場合、
「愛が与えられていないのではなく、わたしが、愛の受け取り拒否をしていた」
「自分のせいでも誰のせいでもなく、わたしが、豊かさ、愛、奇跡を拒んでいた」
「こんな現実嫌だと思っていたけど、まさに、わたしが望んでいたことでした」
という本当の本音に触れる祈りが大切。
この本当の本音に向かうこと、触れることで、奇跡をどんどん受け取るようになります。
そして、そのためには、本当の本音に向かう矢印、心の角度、赦しが、とても大切なこと。
赦し、内観によって、
「愛が与えられていないのではなく、わたしが、愛の受け取り拒否をしていた」
「自分のせいでも誰のせいでもなく、わたしが、豊かさ、愛、奇跡を拒んでいた」
「こんな現実嫌だと思っていたけど、まさに、わたしが望んでいたことでした」
という本当の本音に、本当に出会うとき、というのは、解放、安心、落ち着き、静けさ、内から自然と沸き起こってくる喜び・・・などを感じるものです。
そして、それを心が感じられる(内的に受け取る)ことこそ、何よりも、重要なところです。
内的なものが先、内的なものは外的なことに反映される(でも外的なことが目的ではない)
ですので、内観、赦しと奇跡、そして、祈りは、セット、みたいな感じです。
これまで、セッションの機会をいただいてきた中で、
「愛が与えられていないのではなく、わたしが、愛の受け取り拒否をしていた」
「自分のせいでも誰のせいでもなく、わたしが、豊かさ、愛、奇跡を拒んでいた」
「こんな現実嫌だと思っていたけど、まさに、わたしが望んでいたことでした」
ということについて、
・それに気づいたけど「で?」となる
・それに気づいたけど、自分を責めてしまう、後悔する、落ち込む
・・・となってしまうんです。どこか間違いがあるのでしょうか?何かアドバイスをください
とご相談をいただくことが続いていたことがあります。
そして、今、ここで、書きたいと思うことは、
このようなときこそ、大切なのは、
・赦しのとき
・聖なる存在との信頼関係を育んでいくとき
です。
本当の本心に戻っていくこと、本当の本音に触れる祈りを捧げることで、深い安心へと導かれ、奇跡を受け取るからです。
Oriesatoでは、「本当の本音に触れる祈りを捧げる」ということへと意識がまっすぐに向かっていく中で、自分ではわからないところで神様アレンジがはじまってるとしか、いいようがない、そうとしか思えない、という日々、その喜びを、たくさんの方と分かち合っています。
それで、
・「本当の本音に触れる祈りを捧げる」ということへと意識がまっすぐに向かっていく
ここが難しく感じるということは、誰にだってあること。
むしろ、大きな奇跡、変容、新たなステージへと広がっていく前兆だと思うのですが、一番、苦しいときでもあるかもしれません。
できれば「苦しい時間」がちょっとずつでも短くなっていく方がいいなとわたしは思っています。
それで・・・
・それに気づいたけど「で?」となる
・それに気づいたけど、自分を責めてしまう、後悔する、落ち込む
・さらに、その状態が長く続いている
・・・となってしまうんです。何が間違っているのでしょうか?何かアドバイスをください・・・
というご相談がつづくなかで「何か、ブログでもご紹介できる、多くの方と共有できる、なにか、書き出しシートのようなものがあったらいいな」と思っていたんです。
(つづく)