コントロール思考とは、方向づけの仕方のこと。
「悪いもの」ではなく、恐れを前提とした恐れを減らすための心の努力のことです。
「コントロールを手放しましょう」とよく言われるのは、恐れが前提となっているからですね。
「人をコントロールしようとする」とか「状況をコントロールしようとする」というと「なんだかよくないこと」のように思えることもありますが、それは本当は「恐れを前提とした恐れを減らすための心の努力」のこと。
「恐れを減らすための努力」だから、外にコントロールを見て、「愛」とか「善きこと」のように錯覚することもあります。
「未来を保証したい」心の動き
- 「こうしておけば安全」
- 「失敗しないように」
- 「間違わないように」
- 「これをやったら、相手はこう反応するはず」
未来の形を先に固めておきたいという衝動。
「自分が間違わないように」自分を管理する動き
- 「こう考えなきゃだめだ」
- 「この感情は正しくない」
- 「こういうわたしは間違っているかもしれない」
- 「これが本当のわたしなの?ズレてるの?」
自分の内側を「正しさの基準」に合わせようとする管理が入っています。
「自分の存在は条件つきだ」というエゴの信念の反応。
「正しさによって存在を守ろう」とする試み。
「いまの感覚」を後回しにして「結果を整えたい」
- 「どうすればこの問題が解決するのか」
- 「何をすれば気持ちよくなれるのか」
- 「どの選択が間違いじゃないのか」
- 「この質感はどう扱えば正しい方向に行けるのか」
ここでは、「いま感じていること」より、「この先どうなるか」を優先する。
コントロール思考の内側には何があるだろう?と思ったとき、Fear-Mappingを使ってみると、
- 第1層:これに対して緊張を感じる。これ(外の形)がこわい
- 第2層:〇〇になったらどうしよう(未来の予測をしてこわい)
- 第3層:わたしは間違えると存在が許されない
- 第4層:ほんとうの存在の無条件性を思い出したい(=光の願い、本音)
・・というのが出てきたりします。
つまり、コントロール思考はその奥で「本当は愛に戻りたい」ということだった、そのしるしだった、
ということが見えてきます。
「自分をコントロールしようとする」とか「人をコントロールしようとする」とか「状況をコントロールしようとする」とか、いろんなところで「コントロール」があることに気づくこともありますが、
「このコントロールは良しで、このコントロールは悪し」という判断をする話でもない。
「コントロールは出てきてはならないとみはる、コントロールをやめようと努力する」というコントロールの話でもない。
こういう感じで恐れを見ていくと「コントロール=よくないもの、悪いもの」みたいな感じが、自然と抜けていく。
Fear-Mappingで恐れを見ていくと、「音色」がどんどん「純粋な本音」に近くなって、自分を責める力みが抜けていくことを感じられてきます。
その流れの中で・・・今まで「重さ」や「澱み」のように感じていていたのは、自分が間違っていたからとか、何かが足りなかったからとか、心の奥に大問題を抱えていたからとか、そんなふうに思ってきたけど、まったくそうじゃなかった、ということがよく見えてきます。
そうして、自分自身の中にすでにあるもの、今(今までもこれからもずっとあるもの)とのつながりが、いつの間にか回復されていく中で、
「なんとかしようとする、コントロールしようとする」という動き「ではない方の働き」と、いつの間にか、自然と、思い出していっているものです。
その心で受け取っているものは、自然と、現実という鏡にも映し出されています。