そんな日々が過ぎていく中で、過去にブログ上に「自分の体験談」として「傷ついた体験、苦しみの体験」を、書いたことについての後悔が襲ってきました。
少し触れる程度だったとしても、です。
もちろん「まるごとそのままを具体的に書く」ということはしないように意識をして、「内容の部分」が嘘にならない範囲で、特定できないように工夫をして書く、ということをしました。
そして、そういったことをブログに書いたのは、
「死という言葉がよぎることがあるほど苦しいけど、でも、苦しくなかったら生きたい、本当は生きたい、という思い」と、私自身がつながりたいと思っていたからです。
しかし、当時のわたしは、このことをはっきりと言葉にできませんでした。
過去にブログ上に「自分の体験談」として「傷ついた体験、苦しみの体験」を書いたことに対する後悔があがってきたときというのは、
わたし自身がわたしの中に、見て見ぬふりをしていた自己中心性や恐れを自覚した瞬間でもありました。
「自己中心性と恐れは普通は一緒に生じる(奇跡講座 T-2.V.2より)」とありますが、まさにその通りだと、自分を振り返ってそう思いました。
「わたしが傷つけられた」という思い、その恐れの思いは・・・
「わたしを傷つけた人」の帰りを待っていた家族や誰かがいるかもしれない、もしかしたら近所の猫ちゃんはこの方を心待ちにしていたかもしれない、もしかしたら家にある鉢植えはその方が与えてくれる水をいつも待っていたかもしれない、天国にはその方の幸せだけを思うご先祖様たちがいらっしゃるに違いない・・・わからないけど、神の愛はだけはその方の中にもある・・・
このことを、わたしに、見えなくさせてしまっていたのです。
わたしが、わたしの中に浮かんできていた、薄々気づきかけていた恐れを、見て見ぬふりをしていたことによって、「恐れを見ていたことで、見えなくなっていたもの」があったのです。
わたしは、もう、「傷つけられた」という鎧を脱いで、「決して傷つかざる強さ」を思い出したい、それだけを求めたい、と祈りました。
わたしの中にも、「被害者」の中にも、「加害者」の中にも、誰の中にも、すべての中に、神様がいます。
すべて例外なく、神が愛してやまない神の愛し子。
このような背景から、わたしは長い間、治療や癒しを求め、学び、恐れを見つめ、自己探求はつづけてきたものの、過去の見え方も変わり、体験そのものも変わり、
「あのとき見えていなかったもの」を思い出すことも何度もあり、
もしかしたら、それをこうして、文章にしてみたかったということもあるかもしれない、と思いました。
このブログを読みにきてくださっている方の聖なる光とつながりながら。
本名で活動することにしたのも、出会ったすべての人々、そしてその人々が関わるすべての人々は、麗しい光そのものであることを、わたしが忘れずにいたい、ということだったのかもしれません。
「なぜ本名で活動することにしたんだろう?(1)〜(3)」までを書いてみて、
今も、心の中にあるんだなぁ、と思ったのは、
「違和感があったり、苦しかったり、することがあったとしても、本当は生きたい、喜びたい」
「死ということがよぎることがあっても、死にたくなるほど苦しかったとしても、本当は生きたい。苦しくないんだったら生きたい」
「もっといい何かがあるはず」という、かすかな声・・・
そんな思いを大切にしたい。
「苦しみでのつながり」ではなく、命の喜びを分かち合い、本当のつながりというものを知りたい、経験したい、ということです。
・・・このことは、ずっと、言葉にできなかったけど、でも、今振り返ると、これまでのすべての出会い、すべてのセッションが、見せてくれていたと思います。