”わたしは今”を書きたいと思って(1)のつづきです。
”わたしは今”を書くというのは、「あれをした、これをした」という事よりも、内的なことを中心に書いていきたいと思っています。
そして、そうしていきたいと思ったとき「晴れの日や曇りの日や雨の日や嵐の日や虹が現れる日など、いろいろあるだろうなぁ」と思うのです。
このことについて、自我は、
そんな情緒不安定を世に晒すなんて、なんてことだ
プロフィールに「スピリチュアルカウンセラー」と書いたばかりなのに、もっと、悟りを開いたような感じのことを書くべきだ
持続する安心、安定、「光の言葉」だけを発信すべきだ
と言っていました。
わたしは「悟りを開いた」とか「目覚めました」とかじゃない。
自我をこのようにして、文字にすると、同時に「恥ずかしいという感覚」が、まだかすかに出てくると同時に、この言葉が思い出される。
あなたの使命は極めて単純な者である。あなたには、自分が自我ではないということを実証するために生きることが求められている。(中央アート出版 奇跡講座 T-4.VI.6:2-3)
「是非とも受け入れたいです」と、何度でも、そう思う。
この「恥ずかしいという感覚」をよく見てみると「穴を掘って入りたい」ような感じであって、「その感じ」をよく見てみると「ひとりぼっちでいたい、孤独なままでいたい、閉じこもっていたい」という感じがあり、
さらに「その感じ」に耳を澄ませていくと「立派で正しい神様のような自分でいるためには、引きこもっていたい」と打ち明けてくれる。
小学生の頃を思い出す。わたしは、小学生の頃、祖母の喜ぶ顔が見たくて、祖母の喜ぶ声を聴きたくて「立派な自分になりたい」と思っていた。
「でも、そんなことできない。できないに決まってる」と「わかってしまったわたし」がいた。
このことを思い出して、深刻視していたことが、以前にはあったけれども、今、このことを文章にしてみて「本当の幸せが訪れていた気配」みたいなものを感じた。
話を戻します。
自我の中で、わたしは、
そんな情緒不安定を世に晒すなんて、なんてことだ
という考えと共に、必死でブレーキを踏んでいましたが、
そもそも、わたしは、情緒不安定を書きたいわけじゃない。
持続する安心、安定、「光の言葉」だけを発信すべきだ
については、たしかに「持続的な安心、恒常的な安心」は大切にしたいし、そうありたいと望んでいますが、
「持続的な安心、恒常的な安心について、わたしは自分でわかるはず。自分でなんとかやれるはず」とか「光の言葉とはこういう感じのことだ」と「わたしは自分でわかります、自分でやれます(あるいは、そうできるはずなのにできない)」という自我があったようです。「自分でできる、自分でやれるマインド」。
ちなみに「光の言葉」とは「希望や明るさ、前向きさ、勇気を感じさせてくれるポジティブなメッセージ(それだけに限る)」という、自我の決めつけを持ったままでいたようです。
(内面の)晴れの日。曇りの日。雨の日。嵐の日。虹が現れる日。
わたしは、長い間、このことを、ジャッジして、なんとかしようとしてきたように思います。
愛以外の想念を疑問視していくこと、価値判断を疑問視していくこと、心を解放を望むことは、これからも続けていくので、それは、それ、です。
目的は、愛以外の想念を疑問視することにより、愛に戻り続けていくことです。
「曇りの日は悪いことで、晴れの日や虹が現れるときだけ、わたしはただ存在していていい」というように、今までどこかで信じてきた節があったと思いますが、こうして文字にして、読んでみると、なんだか奇妙な、おかしなことのような感じがしてきます。
わたしは、ただ、晴れの日、曇りの日、雨の日、嵐の日、虹が現れる日を、文章にしてみたい。
ちょうど最近、お友達にFlowという映画をおすすめしてもらって、早速Amazonプライムで見たところでした。
その映画の中で、洪水で地面が割れるだったか、大地が飲み込まれるだったか、そういうシーンがあったのですが、それが、とても神聖で美しくて、驚いたことを、今、思い出しました。
※「Flow」の中で洪水のシーンは何度か出てくるのですが、わたしが驚いたのは、後半の方だったと思います。
「洪水という自然現象は恐ろしいもの、この心を脅かす、悪いもの、でも、受け入れるしかないもの」という感じがあり、
「天国(今ここにはない天国)には神様がいるから、大丈夫大丈夫」と自分を言い聞かせているようなところが、どこかでまだまだあったのですが、映画を見て、今までのその見え方が「あれ?」となったのです。
Flowの中で描かれていた「大洪水のシーン」に、わたしが感じたのは「堂々、自然体、鷹揚」でした。
「地球の神様」が寝返りを打つときって、こんな感じかもしれない、と言いたくなる感じ。
そのとき、わたしの心に恐れはなく、ただ「なんて美しいんだろう」という感覚、感動が広がっていっていたんです。
Flowという映画全体を通して「ただそのまま、あるがまま、自然体」という感じを経験させてもらったように思います。
「晴れの日、曇りの日、雨の日、嵐の日、虹が現れる日」があったとき、そのそれぞれの日を、そのまま見つめていくということで、
「晴れの日がよくて、嵐の日は悪い」とか「虹が出る日ばかりだったらいいのに」というような「序列、差異を見る感じ」じゃないものが見えてくるのかもしれない。
・・・そんな予感を、たった今、感じました。こしょこしょ、と、耳打ちされた感覚があります。
そして、それと同時に、先のことより「わたしは今」に戻り続けていきたいと思っています。