なぜ本名で活動することにしたんだろう?(2)

前回からの続きです。

2018年からのブログでは、いろんなことを書いてきたように思いますが、

心の苦しみや痛みを感じているけれども、切実に癒しを求めるの方の心に、寄り添えるかもしれない、

死がよぎるほど心が苦しいこともあったけど、でも本当は生きたい、のびのびと光の輝きを表現したい、と思っている方に、もしかしたら、何かできることがあるかもしれない

この思いは、今も、わたしの心の中にあるなぁ、と思いました。

この思いは、わたし自身に希望を与えてくれるもので、わたし自身が、

「死という言葉がよぎることがあるほど苦しいけど、でも、苦しくなかったら生きたい、本当は生きたい、と思っている」そんな思いとのつながりを必要としていた・・・そんなところがあったかもしれません。

ここで明確にしておきたいことがあります。

わたしが必要としていた、今も大切に思っているのは、

「心が苦しくないなら、本当は生きたい」「この心を苦しみから解放したい」「生き生きと生きたい」「天からの光が輝き、広がるのを見届けたい」「でも、心が苦しくなくなるにはどうしたらいいかわからない・・・わかりたい、学びたい」この思い、この祈りです。

わたしは、苦しみでつながり合いたいわけではなく、命の喜びを分かち合いたい。

言葉にしてみることが、今も少し、難しいような、微かにためらいがあるような感じがしますが、

苦しみではなく、心の喜びを合いたい。

苦しみの中にあったとしても、たしかに、心の奥に「苦しくないんだったら、生きたい。のびのびしたい」という声がしている。この思いとつながりたい。

このことは、今も、そう思います。

そして、自分のプロフィールを書こうと思ったとき、わたしには何もない。

わたし自身の過去の体験といえば、「地獄な感じの体験」か「天国な感じの体験」しかない。「天国な感じの体験」は言葉にできない。

さらに、2018年〜2022年までブログを書き、セッションの機会をいただいたことで、わたし自身、深い癒しを経験し、奇跡の体験も、言葉にすることがむずかしくなっていっている気がします。

そして、同時に「地獄な感じの体験」を書くことは、心が望んでいないようなのです。

なぜなら、今まで「被害体験」「悲惨な体験」と見えていたあの出来事があったからこそ、わたしは神の愛を求めるしかなくなりました。

神の愛、全的な愛、祈り、奇跡・・・それは、わたしにとって、ギフトです。

この体験がなければ、ブログやセッションを通して出会った方たちとも出会えなかったでしょうし、素晴らしい思い出の数々はなかったでしょう。

わたしは、長い間、苦しみや葛藤を感じてきましたが、

このことについても、わたしの人生が一生をかけて、天国へと続く道となるように、癒しの光で照らされるようにと与えられたギフトなんだと、今は心からそう思っています。

(つづく)

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