扉のないドア

自分自身の中ですでに輝いている光、というのは、自分ではよくわからない、ということは、もしかしたら、よくあることかもしれない。

それで「自分の中には光なんてない、見つからない、足りない」という声に、あるとき耳を傾けて、外を見渡してみると、「たくさんの光たち」が見えることがある。

うまく言葉にできないけれど、光り輝いていて、それがまぶしく感じられることがある。

自分だけ何もなくて、何かが足りなくて、外にはいろんなものがたくさんあるように思えることがある。

「自分にはない、今のままじゃだめだ」と思い込んでいて、そう信じ込んでしまっているので、外に見える形を見ながら、自分も形になりたい、と思う。

自分の光を形で見てみたいし、形で確認してみたい、と思う。

そうして、何もない日々、静かな日々が、平らに過ぎていく。

ときどき、何かが訪れるようにして、優しくなでる風のように通り過ぎていくけど、何もなく、平で、静けさだけが存在感を増していくように感じる。

「自分の光を形で見てみたいし、形で確認してみたい」

という願いは叶わないものなのかもしれない、と思った頃、誰かが「あなたの光をあえて形にするなら、こんな感じ」という。

けれども、「あなたの光をあえて形にすると、こんな感じ」というのを見て、ちっともしっくりこないし、意味がわからない、と思う。

嫌な感じはしない。

嫌な感じはしないという感じを感じていると、もし、わたしがそれを受け入れたら、すべてがなくなってしまうような、今までしてきたいろんなことが無駄で無意味になるような、ちょっとこわいような感じがしてくる。

けれども、相手はわたしのことを否定しているわけではないし、わたしのことを変えようとしているわけでもない、というのは心の奥で確かに感じている。

わたしの中でだけ「もし、それを受け入れたら、すべてがなくなってしまうし、今までしてきたいろんなことが無駄で無意味になる」という声が大きく鳴り響いている。

「もし、わたしの中の、その”光”が、そもそも、言葉にするような類のものではなかったとしたら?」

という問いが浮かぶ。

言葉にするような類でもないし、形や動きにするような類でもない。

けれども、絶対的に欠かせないもので、実は誰の中にもあるもので、言葉にも形にも絵にも動きにもできない・・・

絶対的に欠かせないもので、実は誰の中にもあるものなのに、みんながそれを探している。わたしがそうしているように・・・もし、そういう類のものだったとしたら?

もし、仮に、「神さま」を・・・

「存在するすべての源であり、すべてを生かしている源であり、無条件の愛をあらわす言葉のひとつ」

「この世界にくる前、この世界にいる間、この世界を旅立つあとのすべてに平和に満ちている存在」

・・・だと定義した場合。

「難しい」と探し回っている「わたし」に対して、どんなふうに「探していたもの」を与えてくれているだろう?

「もし、それを受け入れたら、すべてがなくなってしまうし、今までしてきたいろんなことが無駄で無意味になる」という声を信じそうになっている「わたし」に対して、なんていうだろう?

それが、もし「わたしの中にある、わたしの源であり、無条件の愛をあらわす存在」だったとしたら、なんていうだろう?

そのときどんな感じだろう?

なんていわれたら、一番、心が優しく満ち溢れる感じがするだろう?

それはどんな”まなざし”だろう?

もし、仮に、「わたしの光」が、形として成立する類のものではないので、「形の答えの棚」を探しても見当たらず、外を歩き回っても見当たらなかっただけで、でも、

「わたし」には「なくていいものがなかっただけ」であって、それは、扉のないドアのようなものだったとしたら、どうだろう?

もし、扉のないドアのようなものだったとしたら?

その「源」からのものが、自由に出たり入ったりしている、ただそれであったとしたら?

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