今年の6月からバイロンケイティワークをしています。
朝は何があっても必ず毎日しよう、最低でも4つの問いかけだけはしよう。
そのときできるところまででいいし、途中でわからなくなっても大丈夫だし、”間違っていたとしても”大丈夫だから、とにかく毎日しよう、と思って、毎朝ワークしていました。
サボりたくなるようなことは何度もありましたので、そんなときは「今日は問いかけ1個だけでいい」と自分を励ましてやってみると、意外と楽しくなって最後までやりたくなる、ということもたくさんありました。
やはり、心は、自然と、安心へと向かっていきたいようだ、と何度も思いました。
そして、ワークするたびに「その心を考えに縛りつけてストレスを感じていたのはわたし」ということを、何度も直視することになります。
これは、何度も見る必要があることだとも思っています。ほんとうに、何度でも「なかったことにしてしまう」からです。
バイロンケイティワークをすると、「世界を鏡としてみる」「外に問題はない」も、以前よりもストレスなく受け入れやすくなり、今まで無意識的に例外視していたところに立ち止まれるようになった気がしています。
「奇跡講座の自我ではなく聖霊の見方で見る(知覚の訂正、奇跡)」というのも、スムーズになった感じがしています。
内観するということは「日常の中でストレスを感じていたこと」に敏感になっていく(無視しなくなっていく)ということでもあります。
そのストレスを癒しの機会へのサインとして受け取り「わたしはこのことにどんな解釈を与えているんだろう?そしてどんな信念を与えているんだろう?」と問いかけます。
すると、たとえば「わたしは税金を支払わなければならない」という考えに、立ち止まることになります。
その考えに一度とどまってみると「一方的な通達という圧により、自分自身の主体性が失われている」というような錯覚に陥っていたことに気づきます。
頭は「そういうことじゃないのはわかってる」と言います。
けれども身体や感覚は、そうは感じていないことは確かです。
このように、微かにでもストレスを感じているとき、ただ、立ち止まり、ただ、問いかけてみよう、と思えると「他にも扉があった」ように感じられるのはうれしいです。
そして「わたしは税金を払わなければならない」というステートメントを問いかけていきます。
「わたしは税金を払わなければならない」と不動の壁のようにしてそこにあった考えに対して、4つの問いかけをしてみる、というのは、ちょっとわくわくします。
4つの問いかけというのは、
(1)それは本当でしょうか?
(2)その考えが本当であると、絶対言い切れますか?
(3)そう考えるとき、あなたはどのように反応しますか?何が起きますか?
(4)その考えがなければ、あなたはどうなりますか?
です。
これは、まさに内観であり、瞑想であるとわたしは感じています。
「頭を使う」ことを手放して、感じていく、そうしながら、心の奥にある叡智にただゆだねていく感じです。
じっくり感じたら、ターンアラウンド(最初のステートメントの意味を反対にする)をするのですが、ここが一番好きです。
わたしは、同じステートメントを何度もワークする、ということがありました。
しばらく時間をおいて、同じステートメントをワーク(4つの問いかけとターンアラウンド)をすると、まったく別の感じ方、見え方に、自然と変わっていたことに気づかされることがあります。
いろいろな考えをワークしていくと、わたしの場合は根源層のおそれの感覚があがってくることもありました。(それもあって、恐れの地図へとつながりました)
先日、セミナーをご一緒してくださった方からいただいたメール(https://oriesato.com/250930-3/)の中で、
5年前、初めて織絵さんのブログに出逢った時、『自分を幸せにできるのは、自分しかいない』という、私の思考をぶち壊したフレーズを想い出しました。人生で1番ドン底絶望の時、史上最高の神の幸福のギフトを受け取っていました。
とあって、まさに、あのときの「自分を幸せにできるのは自分しかいない」が指していた、
「幸せのために、自分が自分にできること」「自分にしかできないこと」の具体的なことのひとつとして、バイロンケイティワークはあると思っています。
「苦しいわたし」「なんだかうまくいかないわたし」「しんどいわたし」「大変なわたし」は「わたし」にしか救えません。
ここは「神さまの管轄」というよりも、まずは「わたしの管轄」のところです。
「神さま わたしは苦しいので助けてください」では、助けがあることが皆無とはいいませんが、わたしのほうが与えられているものに気づいていない状態なので、 自分が自分を助けていくしかありません。
心を見る、考えを問いかけていく、自分の心の奥に答えを探す、というのは、たとえば「情報を知ってる」というのとはまた別の支え、目に見えない支えというものとのつながりを感じさせてくれます。
同時に、自分でなんとかしようとしなくても、正しい選択か間違った選択かを判断しようとしなくても、
ゆるしがなされると「行動面」は自然となされるというところも感じられてきます。
そして、それは「聖霊がわたしを通してなすことを見せてください」の祈りを体験を通して学んでいるということでもあると感じています。