これまで、お金や経済というテーマを通して「与えること」「受け取ること」「信頼すること」をわたしたちは学び続けています。
ここでは、長年続けてきた自由な分かち合いの歩みから、より深く“祈りとしての経済”へ導かれていった流れを記します。
自由な分かち合いの歩み
これまで、ブログや無料のオンラインクラスなどを通して、お金や経済にまつわる気づきや体験を分かち合ってきました。
わたしにとってそれは、「畑でとれたみかんです。どうぞ、ご自由にお持ち帰りください」という光景と重なるところがあります。(わたしが住んでいる地域では、ときどき道端にそんな優しい看板を見かけるのです。実際にはみかんじゃなくてかぼすであることが多いですが・・・。)
誰かが受け取ってくれたらうれしい。
でも、受け取られなくても、木は自然に実を結び、季節がめぐるように、また次の実りが訪れる。
そうした分かち合いを続けながらも、同時に、何度も何度も――「準備ができた状態で、深く丁寧に向き合う機会の意味」に立ち返る流れを受け取ってきました。
わたしはいつも、「いまの自分に一番フィットする形」を大切にしていきたいと思っています。
そして今回は、少人数制のセッションという形で、「お金・経済」というテーマから
祈りと心の癒しをより深く見つめていきたいと感じています。
「準備ができた状態」とは、誰かに促されることではなく、(心のどこかで)説得を求め納得できた状態でもなく、
自分の内側にある静かな“GO”の感覚を感じ取り、その流れを信頼するということでもあるのかもしれません。
経済にまつわる恐れと気づき
先日、「ここ数年、まわりで経済についての恐れの話を聴く機会が増えた」と書きましたが、この一年はセッションだけでなく、メールでも“急増”というほどに増えていました。
それらのやりとりを通して、わたしの中の深いレベルで眠っていた恐れや痛み――
根源層、つまり神との関係レベルの恐れ――が揺さぶられているのを感じました。
ここまでくると、もはや「お金、経済」という話ではなくなっていきます。(心と向き合っていくうちに、最初の具体的テーマと全然違う話になっていくのは“内観あるある”です。)
「エゴは人類集合の機能不全」「お金は集団での投影先」という言葉は心やスピリチュアルについての学びを歩むなかで何度も耳にしていましたが、
それは確かに個人の枠を超えた内的景色でした。
結び
この気づきと揺らぎの体験は、「祈りとしての経済」というクラスが生まれていく最初の呼び声のようにも感じています。
次の記事では、そこからどのように“光を再び流す分かち合い”へ導かれていったのかを綴っていきます。
(つづく)
*お知らせ*
【クラス】祈りとしての経済―愛の循環へと転換する12のレッスン
日曜朝クラス(11月23日スタート)残り1名
日曜夜クラス(12月7日スタート)
今回は、はじめての8ヶ月かけて、じっくりと歩みを進めていくグループレッスン・セッションです。
「心と向き合うという感覚を受け取ってはいるけど、ひとりだと恐れや痛みと向き合うことを避けたくなる」
「ひとりだと責めて反省したり、どうでもいいと投げやりになったり、諦めになったりしがち」
「瞑想的な心地よい内観の体験を保ちたい」
・・・お待ちしております🕊️