”神様にゆだねる”ということ。
”大いなる存在”にゆだねるということ。
”宇宙にゆだねる”ということ。
ゆだねる。おまかせする。あずける。ということ。
それはつまり、自分にゆだねない、ということ。
自分がコントロールしたり、
自分が操作したり、
自分で計画を立ててその計画通りにしようとしたり(おそれ・欠乏からの計画)
自分の思い通りにしようとしたり、
ということを、していない、ということ。
神様にゆだねる=自分にゆだねない
ということ。
自分にゆだねる=自分でやろうとする
ということ。
なので、神様にゆだねたいなら、まず、自分にゆだねていたことに気づく必要がある。
「ゆだねるのが難しいんです」「ゆだねるのがこわいんです」ということをよく聞きますし、わたしだって、そう思ってたことはありますが、ゆだねること自体が難しいわけでも、こわいわけでも、ないです。
だって、神様にゆだねていないときは、自我にゆだねているから。
ゆだねること自体はスペシャリストなのです。
それで。
コントロール欲求
操作
というのは、人によっては、というか、時と場合によっては、「裁くことなく、でも、正当化したり、開き直ったりすることもなく、ただ、見る」ということや「認める」ということが、とてもとても難しいことがある。
わたしは、10代の頃、自分の中に、コントロール欲求、操作、自分の計画通りになってほしいという思い、思い通りにしたいという思いがあることは自覚はしていたのですが、
自分の中にこのような思いがあることに、罪悪感やおぞましさを感じて、どうしたらいいかわからず、罪悪感や深刻視とそれによる妄想がひどすぎて人にも相談できず、絶望していたことがありました。
どんなことも「裁くことなく、でも、正当化したり、開き直ったりすることもなく、ただ見る」というただそれだけが、とても大事だと、今、心からそう思っています。
コントロール欲求、操作(自分の計画通りにしたい、相手を変えたい、自分の思い通りにしたい等)
あとは、他責や依存などは、
否認が強く働きやすいところでもあるかもしれませんが、
これを認めない限り「自分でやろうとしていました。今、選び直したいと思います。神様にゆだねます」ができない。
できようがない。
これを禁止・抑圧・我慢・否認したまま宇宙にゆだねるとか、デキッコナイ。
でも、一度、本気で、赦すと、すごく、楽。
コントロール欲求、操作(自分の計画通りにしたい、相手を変えたい、自分の思い通りにしたい等)
あとは、他責や依存など。
もう、これを、赦すの、ほんとうに大事。
わたしは、ある時期、コントロールや操作を赦すことに、本気で、コミットしていたことがあります。
自我にゆだねたくないから。本気で神にゆだねたいと思ったからです。
もちろん、自我は絶叫してました。笑
「テーマを絞って集中する」みたいな感じのことをしていましたが、まぁまぁ、時間がかかっていた気がするなぁ。
でも、本当に、この時期があってよかった、このように心が導かれたこと(本気でコミットしたいと思えたこと)は、まさに神様からのギフトだったとおもっています。
それ以降も「コントロール欲求、操作(自分の計画通りにしたい、相手を変えたい、自分の思い通りにしたい等)、他責、依存心」などは出てくることはあります。
それに、一刻も早く、立ち止まって、気づく。祈る。
そして、自分自身にやさしくある。
・・・ということを、毎日、思い出しています。