「現実離れ」を日常生活に

祈りも、心やスピリチュアルな教えも、奇跡講座も・・・

「現実離れしている感じがする」と思う方もいらっしゃるかもしれません。

継続コースでは「平安よりも、まず、結婚を、恋愛成就を・・・」とか、「神の愛より、まず、収入のアップを、仕事での成功を・・・」とか、そういった、お話をきくことも、たくさんありました。笑

祈る、ということは、「神を一番にします」ということなので、祈っていく中で、「世俗的なものを一切捨て去り、シスターになれということでしょうか?」というご質問・ご相談をいただくこともよくありました。

こういったとき、大事なのは、心をよく見ること、どんな信念を持っていたかというところを、自分自身が認識することです。

こういうのって「外側の情報で知る、納得する」というよりも(これはこれで大事ですが)

内観して、自分自身がよく見ること、認識することが、めちゃくちゃ大事だということ。

内観のすごさを、ほんとうに、痛感してきました。

今、これを書きながら、この内観の深さ=真の感謝の深さとなるのでは?と思いました。

※真の感謝というのは、イコール、真の祈りのことでもありますが、この話は、また今度ブログに書きたいと思います。

話を戻して「現実離れしている感じがする」という場合。

たしかに、現実離れしたことを学び、練習、実践していきますが、どこで、練習、実践をするかというと、日常生活の中で、です。

日常生活の中の「今、自分が気になってること、問題だと思っていること」が、そのまま、”教材になる”みたいな感じです。

そして、その日常生活の中で、体験を受け取ることで、学んでいく、学んでいきたい、という感じです。

学んでいく、というのは、過去の”学びが白紙に戻されていく”ということ。

「絶対にこうだ、これが正しい」と信じ込んでいたエゴの信念(おそれ、不足、欠乏の信念)が取り消されていく。

今までの自分の見方が訂正されていく・・・ということ。

今までの自分の見方が訂正されていく、というのは、わたしたちが自我と共に見ていた見え方が、聖霊と共に見る見え方に変わる、ということ。

奇跡講座では、自我(恐れ)のことを間違った心、聖霊(愛)のことを正しい心、とも呼んでいます。

自分が間違っている、というのは確かにそうなのですが、これは、心が仕える先が間違えていた、ということでもあります。

それで、わたしは以前、「間違っている」という言葉がなんか嫌だ、と、思っていたことがあります。

これは、奇跡講座を呼んで「そういうことだったのか」と思ったことのひとつなのですが、「間違っている」という言葉がなんか嫌だというのは、「間違い=罪、犯してしまった罪=訂正不可能」という自我の理論を信じ込んでいた、ということです。

「間違い=罪、犯してしまった罪=訂正不可能」を信じ込んでいましたから、だから、「自分の間違いの訂正を求める」というと、「自分の罪を認めて、裁かれて処罰を受ける感じ」とか「自分の罪を認めてしまうこと=もう救いようがないということを認めて、ただただ、罰を受けるのを待つだけのこと」とか「自分の罪を認めて、屈辱感や惨めさを感じながら、正しい何かに従う感じ」とか、そういうような感じがあったと、気づきました。

なので、奇跡講座の「間違い=罪、犯してしまった罪=訂正不可能」「自分の間違いを認めて訂正を求める」「誤りを見つけて真理の元へと運ぶ」というような箇所を読むだけでも、

  • 「自分の罪を認めて、裁かれて処罰を受ける感じ」
  • 「自分の罪を認めてしまうこと=もう救いようがないということを認めて、ただただ、罰を受けるのを待つだけのこと」
  • 「自分の罪を認めて、屈辱感や惨めさを感じながら、正しい何かに従う感じ」

↑この辺りの「おばけ」、潜在意識に隠していた「おばけ」が、出てきた、みたいな感じでした。

こういったものを、潜在意識に「おばけ」のまま隠し持っていたら、それをこの世界(関係性・状況・出来事)に投影することになります。

今思えば、このような「おばけ(ほかにもいろんな種類のおばけがいました)」が「本当の自分を知られたら、きっと、幻滅されるだろう」「誰かと会うときは、いつもベストな状態でいたい」みたいな、そういう感じにつながっていたんだなぁ、と思います。

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