ある友人が夢を叶えるために上京して新生活を送っているということだったので、先日、東京に行ったついでに、食事をしてきた。
久しぶりにあった友人は・・・なんというか・・・ガラッと印象が変わっていた。
以前は「虹色」みたいな、そんな感じだった。
カラフルで、パチパチと弾けているような、そんな感じだった。
それが「神秘的な洞窟の静けさ」みたいになっていた。
顔色はとてもよくて、姿勢がとてもいい感じがして、「身体鍛えてるの?」と聞きたくなるような感じだった。
そして、レストランに入り、小一時間ほど「新生活がいかに大変か」ということを、聞きつづけることになった。笑
「新生活いかに大変か」「そして、それについてどのような対策をとっているか」「そして、そんな日々がいかに大変で疲れるか」ということを聞きつづけていると、
「新生活がいかに大変か」という話に「以前の生活がいかにありがたいものだったか」「これまで支えつづけてくれていた家族がいかにありがたいものだったか」が混ざりはじめた。
「以前の生活がいかにありがたいものだったか」「これまで支えつづけてくれていた家族がいかにありがたいものだったか」を聞いて、思わず、おお〜、と感動した。
しかし、また「けれども新生活がいかに大変か」という話になったので、わたしは黙り、聞きつづけることにした。笑
すると、最後に「きついけど、でも、それは身体的にきついのであって、精神的には楽しい」と結んで、話は終わった。
なんだか、修行みたいでかっこいい、と思った。
苦行じゃなくて、修行。
身体はきついと思っても、”精神的には楽しい”ということが、それを支えつづけていて、きっと、彼は、そのうち、その身体的なきつさが消え、静寂に入るのだろう・・・なんて、思った。
※ちなみに、彼は、(表面的には)スピリチュアルとは全然関係のない夢に向かっています。
その後、全然関係ないところで、「愚痴って大事よね〜」「愚痴を言うのも大事よ」という共通したメッセージを、別々の人から、連続して聞くことになった。
それが、なぜか、心に残ったので、ブログに書いてみようと思った。
たしかに、愚痴は大事。
そして、同時に思い出されるのが「誰に聞いてもらうかが大事」という話。
わたしの中には、目的とか、意図とか、そういうのが、大事、ということが、今、思い浮かんだ。
そう。たしかに、愚痴は大事。
「書き出すといい」とは言うけれども、声に出して聞いてもらうことで「しゃべりながら気づく」みたいなことがある。兄弟の聖性が助けてくれる感じがする。
わたしも、愚痴は大事だと思う。
そして「誰に聞いてもらうかが大事」というのも、たまに聞く話である。
それで、わたしの中に、今、思い浮かぶのが、目的と意図。
「愚痴を聞いてもらいたい、話を聞いてもらいたい、というとき、目的をはっきりさせておくことで、その目的地に到着する」みたいな感じ。
意外と、このほんのちょっとのことが、すごくすごく、大事なようである、ということ。
愚痴を聞いてもらうことで「自分が正しいと言ってほしい、そして、相手が間違っていると言ってほしい」「一緒になって、相手を敵だといってほしい、わたしの味方になってほしい」「わたしのすべてを肯定してほしい」「かわいそう、大変だったねと言ってほしい」「わたしが言ってほしい言葉をあなたが察していってほしい」・・・このような意図(隠された意図)がある場合、「意図せぬ方向にいってしまう」ということがある。
「誰に聞いてもらうかが大事」というのも、そうかもしれないけど、自分の中の目的や意図に意識を向けるようにしていくと、体験も、しっくりしたものに、なってくる感じがした。
「誰に聞いてもらうかが大事」というところだけ見ていると、気づかない間に、外側に自分の運命を左右する選択肢があるような感じが、してくることがあるかもしれないと思った。
誰に聞いてもらうかも大事かもしれないけど、自分の中の目的や意図はもっと大事にしたいと思う。
これは何のためのものだろう?
わたしが”ほんとうに”望んでいることはなんだろう?
この心が”ほんとうのほんとうに”望んでいることはなんだろう?