いつもとても楽しい時間で、そして新たな気づきがあるのでうれしいです。
そしてOrieさんが笑ってくれることにより、「私、深刻視しすぎていたな」と我に返れています。
今まで、自分なりに内観をしてきて、それだけでも十分奇跡は受け取っていたのですが、やはり一人だと限界があるのかな、と言うのが正直な気持ちです。
外側の何かを参考にして一人で学ぼうとしても、エゴと同一化したままということがあると気づかされました。
もう何十年もエゴと同一化してきたのですから、仕方のないことかもしれませんが、それは本当に理解したとは言えないと感じています。
勘違いしたまま、エゴと同一化したまま祈ったり内観しても「全然変わらない」ままなのです。
そして気持ちだけが焦ってきます。そして自分を責めるんです。
継続コースでは自分の苦手な部分を丁寧に教えてもらえるし、
グループレッスンだと自分では気が付いていない、もしくは大切だけど忘れていた質問を他の方がしてくださって、それがヒントになり、新しい気づきを受け取れるのも本当に素晴らしい瞬間です。
継続コースもグループレッスンも両方経験してみて、本当に両方ともがとても素晴らしい気づきがあります。
Orieさんが以前言っていたように、その時本当に必要な流れに乗ってセッションを申し込むってあると思いました。
そして、何より一人でブログを読んで内観していた時よりも、すべてにおいて理解が深まりました。
始めは、恋愛が上手く行けばよいって思っていましが、恋愛だけでなく、すべてにおいて今後どのように生きて行こうかと言うことも、自分がとても大切に持っていたことにも気づきました。
次のセッションまでに今日言われたことを思い出して日々過ごしていきます。
今後ともよろしくお願いいたします。
継続コースやグループレッスンを受講された方からいただいたご感想です。
ご本人に許可をいただいた上で掲載しております。
素敵なご感想をありがとうございました。
今では書籍だけでなく、インターネット上でも、心やスピリチュアリティについて、そして、内観、自己探求、宣言や意図設定についての情報に、誰でも簡単にアクセスできるようになりました。
さまざまなセミナーやワークショップの開催情報も、インターネット上で簡単に見つけることができるので、わたしの中では、よく「いい時代になったな〜」という声がします。
学びたいことを、自分自身の感覚に従って選ぶことができるし、その選択肢もたくさんあり、どれを選んでもOKで、それって、とてもわくわくすることだし、自由で楽しいことだな、と感じます。
そんな中でも「一人では限界がある」というのは、よくいただくお声でもあります。
長く自分自身と向き合いつづけていても、内観が難しくなる時期って、あるものなのかもしれません。
わたし自身は、ずっと「一人だと絶対に偏ってしまう」というガイダンスを受け取っていたので、いろんなところに学びにいきますし、内観が難しく感じるときには”兄弟”にヘルプを求めて、たくさんの助け、救いを受けつづけてきました。
世に勝つとは、あなたの小さな壁を乗り越えること以上に難しいことではない。
なぜなら、あなたの神聖な関係という奇跡の中には、防壁がなく、あらゆる奇跡が包含されているからである。
奇跡に難しさの序列がない理由は、奇跡はみな同じだからである。
その一つひとつが、愛の魅力が罪悪の魅力を凌駕する優しい勝利に他ならない。
(中略)
応えたあなたから、あなたに応えた聖霊が呼びかけるだろう。
聖霊の住む家は、あなたの神聖な関係の中にある。
聖霊と神聖な目的の間を遮ろうとしてはならない。それはあなたの目的だからである。
ただ、あなたの関わる関係の奇跡を、それが与えられたままに、その中に含まれているすべてのものへと、聖霊によって優しく延長させてもらいなさい。(中央アート出版 奇跡講座 T-19.IV.A.5より)
なぜか、今、この箇所を思い出したので、引用して掲載しました。
奇跡講座の”聖霊”とは「本当の自分自身」のことです。本当の自分自身とは、神聖な自己、完全な愛そのもの、完璧なスピリットとも言えます。
※本当の自分自身とは「完璧な人間」や「善い人格」などのことではありません。継続コースでは、混乱しがち・曖昧になりがちなアイディンティティを明確にしていきます。
この聖霊に祈り、導きを求め、従っていくなかで「自分が自分だと思っていた自分は、自分じゃなかった」ことに気づかされていきます。
同時に「自分があなただと思っていたあなたは、本当のあなたじゃなかった。自分の決めつけを、あなたに見ていただけだったかもしれない」という奇跡の体験がはじまっていきます。これは、驚きであり、喜びであり、幸せな体験です。
そして、テキストには「聖霊の住む家は、あなたの神聖な関係の中にある」と書いています。
「一人では限界がある」とか「一人ぼっちで孤独になることがこわい」という思いが表面化しているときというのは、「一人(もしくは一人と一人)では不可能な何か、一人を超えた何か」を思い出す時期なのかもしれません。