2022年頃。
「目の前の誰かがわたしへの怒りをわたしに表現する」という場面で、心に静けさが広がっていたことに驚いたことがある。(それ以外にも、この頃は”大いなる何か”をたくさん受け取っていた時期だった)
「目の前の誰かがわたしへの怒りをわたしに表現する」という場面で、心に静けさが広がっているということ。これを、わたしは今、「真夏のパラソル現象」と名付けることにする。
この真夏のパラソル現象は、わたしにとって、ありえないことだったので、最初、驚き、戸惑い、疑っていたというか、解明し、分析しようとしていたことがある。(そうこうしていたら、大いなる叡智により奇跡講座が与えられた)
はじめての真夏のパラソル現象に驚いたあと。
「なんだったんだろう、あれは」という感じで、すぐに忘れて、しばらく平和に過ごしていた。
すると、また、「目の前の誰かがわたしへの怒りをわたしに表現する」ということがあった。
その度に、やはり、どうやら、心の中に静けさが広がっていて、驚いていた。
この真夏のパラソル現象は、何度かつづき、まるで歴史が塗り替えられるような感覚になっていった。
わたしは長い間「怒られるのがこわい」「裁かれるのがこわい」という考えに囚われていたので、本当に驚いていた。
長い間「怒られるのがこわい」「裁かれるのがこわい」「感情を顕にされるのがこわい」「嫌だ!」とビクビクしながら過ごしていたので(といっても、わたしも、怒ったり裁いたり感情を顕にしたりしてたんだけど笑)
この「目の前の誰かがわたしへの怒りをわたしに表現するという場面であったとしても、心に静けさが広がっていますね」ということを、わたしは一度では受け取れず、何度か、采配された・・・と、これを書きながら、そう思った。
「外側の何にも脅かされない、内なる静けさ」という神からのギフトを、全身全霊で、何度も、受け入れる機会が与えられていたということだったのかもしれない、と、今、これを書きながら、なんとなく、そんなふうに思った。
この内なる静けさは、ずーっと、あったんだなぁ。
誰かが怒っているときでも。わたしが怒っているときでも。
世界が大変なことになっている!と動揺しているときでも。
そして、この内なる静けさは、愛を運ぶという。
それで、話はちょっと変わって。
真夏のパラソル現象と並行して、相手が怒ったり、不快そうにしていたりしても、これが、本当に、自分に責任があるわけじゃない、という感覚がどんどん太くなっていっているような感じがした。
このように書くと、自分でこれを読みながら「図太くなったのでは」とか「正当化が上手になったのでは」という「声」が聞こえてくるんだけど、そもそもそういう角度の話じゃない。
これは完全に、投影や鏡の法則や奇跡講座というもののおかげ、関わったすべての人々のおかげ、なにもかものおかげだと思っている。
今まで、わたしは、ありとあらゆる人、教え、何かに助けられながら、
・何をどう見るかの責任はわたしにある
・わたしが見たくてこのように見ている
・これは、わたしの内的なものが映し出されたもの
ということを思い出してきた。
同じ内容のことは、奇跡講座に出会う何年も前から思い出し続けていたんだけど、奇跡講座に出会って”奇跡の機会”が増えて、本気で例外がない(らしい)、という感覚や、ほんとうに妥協したくないという思いが強くなった。
それで「自分の中から怒りが出てくる」ということも何度もあったんだけど「本当に、わたしが選択したんだ」「本当に、わたしが何を見ているかだった、ただそれだけで、世界や何かや相手がどうこういうことじゃなかったんだ」と感じるようになった。
まだまだ練習中なので、これからも「そうは思えない」みたいなことはあるかもしれないけど、「本気の本気で例外がないらしい」を大事にしていきたいと思っている。
自分から怒りが出てくるとき。
それは、本当に、わたしが選択している。
「誰かや何かのせい、ということが、本当にない・・・」と、何度も何度も思う、機会を与えられている。
裏返せば、それだけ動揺に気づくようになったということですが、これからも、きっとたくさんの機会(心の動揺に気づく機会)を、奇跡と癒しの機会として受け取りたいと思っています。
本当に、わたしが、自分が見たいように、これを見てる。
本当に、わたしが怒りたくて、裁きたくて、なんとかしたかった、ただ、それだけだった。この世界、外側、誰かのせいでは、本当になかった。
このことが、頻繁に、そして、本気な感じで、思い出される中で・・・
相手が怒るのも、裁くのも、混乱しているのも、わたしのせいで不快だというのも。
あるいは、相手がわたしを嫌ったり、ジャッジしたり、なんとかしようとしたり、そういった「〜される」のすべて、
そういったことが、本当に、相手のものであって、相手が選択したことであって、わたしのせいじゃないんだ、と思うようになった。
「相手が選択したこと」というのは「相手にも選択する力がある」ということ。
そして、相手には相手の領域があり、相手の物語があり、相手のペースがあり、リズムがあり、プロセスがある。そして、そのすべては尊重されている。
相手の方が「あなたは昔、こんなこと言ってたじゃない(わたしは忘れてる)」とか「あなたって、こんな人よね」と言ったとしても、
それは、相手の中の物語であって、取り入れたり、自分のせいだと動揺したり、自分を疑ったりする必要が、本当の本当になかったということ。
これが「口先だけ」とか「って言うよね。聞いたことある」とか「ああ、それね。知ってる」とか「わかってると思い込むことにする」とかではなく、実感、感覚として、どんどん深まっている。
もちろん、わたしもまだまだいろいろ出てくるだろうから、心の鏡をピカピカに磨き続けたいと思っている。
また「目の前の誰かがわたしへの怒りをわたしに表現する」というとき、あの心の絶対的な静けさというか、なんというかを体験できるのだろうか。
それで、みんなも、相手も、わたしも、そのすべてが、すでにゆるされて、というか咎められたこともなく、大きな愛で、尊重され、尊敬され、愛されているんだ。
この感覚が、数ヶ月続いている。
真夏のパラソル現象に感謝を捧げます。
投影が知覚を作り出す。
あなたに見えている世界は、あなた自身がそこに与えたものであり、それ以上のものではない。
しかし、それ以上ではないとはいえ、それ以下でもない。
したがって、あなたにとって、それは重要である。
それはあなたの心の状態を証するものであり、内的状況の外的映像である。
人はその心に思うごとく知覚する。だから、世界を変えようとするのはやめなさい。
(T-21.in.1:1-7)