叡智に導かれる

「正しい・間違い」「好き・嫌い」「快・不快」「いい予感・悪い予感」

・・・これはジャッジメント、個人的判断です。

※たとえば「交通ルールを守るのは正しいことだ」ということを、2025年日本の多くの人々が「正しい」「それはそういうものだ」と思っていたとしても、ここではそれを、個人的判断、と呼んでいます。一時的判断とも呼べます。

”永遠なる真理”でも”神様の判断”でもなく「この世界においての判断」。石器時代には「交通ルールを守るのは正しいことだ」はない。そして、わたしは、交通ルールはふつうに守ったらいいし守りたいと思います。

そして、もちろん、ジャッジメント・個人的判断・一時的判断が、悪い、わけではない。

個人的判断や個人的意見が悪いとは、わたしは思わない。でも「(悪を想定した)善」とも思っていない。

「霊性が高い、低い」とか「スピリチュアル的にどうの」とかもないと思ってる。(というか、高い低いも個人的判断)

これはわからないと思っている。

そして、なにより、すべて尊い。(支持をするというのと尊いというのはまた別)

わたし自身、自分の中に「正しい・間違い」「好き・嫌い」「快・不快」「いい予感・悪い予感」が出てくることはある。そして、これを、そのまま「直感」や「導き」のように扱わないように練習していたことがある。

個人的判断を、まるで直感や感覚のようにして扱っていると、苦しくなったり、問題(としか自分には見えない)出来事が出てきたり、思った通りにいかなくなったり、することがあるかもしれない。

だから、うまくいかなくなったとき、思い通りにいかなくなったとき、思ってたのと違うといいたくなるようなとき、さらに、自分ではなんとかできなくなってるかもしれないときというのは、本当に、奇跡の機会であって、本当に、素晴らしい中にいるということだと思う・・・これを書きながら、鳥肌がたった。笑

大いなる存在(神・無条件の愛・全一性・真理・叡智・宇宙・仏性・・・)との架け橋として、感覚、直感がある。

奇跡講座では、神とわたしたち(分離できたと信じているひとつの神の子たち)との架け橋のことを、聖霊(ホーリースピリット)と呼んでいる。

わたしは、以前、奇跡講座でいうところの”聖霊”を”神様”と呼んでいた。今も聖霊を神様と呼ぶことがある。

「わたしという個人」の中には、誰にでも、感覚・直感・聖霊・・・がある。

それは、全体像を無条件の愛のまなざしで見渡していて、「どうしたらこの子が(全人類全宇宙とともに)この世界で幸せな夢を見るために一番最速最善か?」みたいなことを、知ってる感じ。

求めれば、必ず、助けてくれる。導きを与えてくれる。答えを与えてくれる。

それで、これは、イメージなんだけど、感覚・直感・聖霊・第六感の「出入り口」みたいなところに、立ちはだかっているのが、ジャッジメント。判断。

それで、わたしは、ジャッジメント、判断、価値観、決めつけ・・・そういったものの訂正を求めている、つまり、奇跡をいつも求めている。

奇跡を受け取りながら、自分も含めた全体にとっての完全な幸せを感じながら、愛と一致していく・・・

そのために、導きを求めているので、わたしは、積極的に、自分の中のまだ訂正されていなかった「判断、価値観、決めつけ、考え、記憶」に気づきたい、自覚したい、とおもう。解放を、すごーく、望んでいるから。

すごーく望む。すごーく願う。すごーく欲する。

わたしは、長い間、自分のことを、欲深く、強欲で、執着心が強いと思って、そんな自分を嫌っていたこともあったし、絶望していたこともあったけど、

その、強欲さ、執着の強さは、このようにして、愛によって導かれていると思うと、もう、感謝が溢れ出てくる。

なにもかものおかげさまです。

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