よろこびとよろこび

無条件の感謝と、条件付けの感謝。

無条件の幸せと、条件付けの幸せ。

無条件のよろこびと、条件付けのよろこび。

無条件の歓迎と、条件付けの歓迎。

無条件の安心安全と、条件付けの安心安全。

「この世界」に焦点を合わせるなら、どうしても、「条件付けの〇〇」は、つきまとうものかもしれない。

この世界。この時間と空間の中で。

そして、心、を感じて、感じて、感じて。

今、を、感じて、感じて、感じて。

戻って、戻って、戻って。

そうしていくと、そこには、いつも、穏やかな感じ、静かな感じ、安心する感じが待ってくれている。

この静かな、凪のような、平和な感じを、感じていると。

この静けさの中で、感謝、喜び・・・そういった、すでに与えられていたものが、広がっていく感じを感じる。

感謝、喜び、嬉しい、開放的な・・・うーん、どの言葉がぴったりなんだろう、と、最近、感情リストを眺めながら、この感じは、なんていう言葉がぴったりだろう、あれかな?これかな?ちょっと違うかな?と、探しているのが楽しい。

あるとき「これを喜びというのか」と思った。

あまりにも素晴らしかったので「よろこび」とインターネットで調べてみると、

喜び、歓び、慶び、悦び、と、四つも(!)、「よろこび」の種類があって、驚いた。

しかも、それぞれ、「空気感」みたいなのが違うっぽい。

それで、わたしが、今、感じているよろこびは、もしかしたら「悦び」に近いかもしれない、と思い、「よろこびを悦びと書こう。この感じをそのまま文字にしたいし」と決めていた。

しかし、このMacが、どうしても「喜び」と変換したがっていて、そのうちわたしはめんどくさくなり、「悦びと書こう」というのは、1週間ほどで「どっちでもいっか」ってなった。笑

わたしは以前「よろこび」と思うと、祖父母たちが連想されていた。

よろこびのほかにも、うれしいとか、歓迎とか、そういう感じのもそう。

これは、無意識の解放を続ける中で、「ずっと潜在的にそのように紐付けされてた」と気づかされたことがある。

小さい頃、わたしが、祖父母の家に行くと、祖父母は、「まぁ!」「わぁ!」と、すごく「嬉しそうな顔」をして、「喜んで」くれていた。

よくきたね、と「大歓迎」してくれていた。

それで、これでもかというほど、わたしの目の前に食べ物を出してくれた・・・ということを、今、思い出す。

「今、お腹いっぱいだから食べれないよ」というと、「遠慮しなくていいのに」と心配そうな顔をしていたように思う。

「でも、食べれないよ」「遠慮しなくていいのに」「でも・・・」を、しばらく、粘っていたようなことも、思い出される。

なんて、可愛がってもらっていたんだろう、本当にありがたいことだ・・・と、思う。

そして、わたしが「じゃあ、帰るね」というと、「ああ、もう帰るのね」「さみしいわ」「またきてね」と言っていて、わたしは、なぜなのか、胸が痛み、罪悪感を感じていた。

そして、胸がとても痛かったので、なぜこんなにも胸が痛むのか、なぜ「わたしは、悪いことをした」というような感覚が広がるのか・・・子どもの頃のわたしは、ずっと、考え続けていた。

誰も、なにも、悪くないはずなのに、なぜだか、「帰るね」といったわたしが悪いような感じがしてしまっていた。

このように、小さい頃のわたしが考え込んでしまっていたことと、関係があるのか、ないのか、わからないけど、わたしは、よろこびとか、うれしいとか、歓迎とか、そういうことに、長い間、ブレーキを踏んでいたようなところがあったと思う。

よろこび、うれしい、歓迎(する・される)、ということを、求めるんだけど、ちょっと踏みとどまるような。

アクセルとブレーキを、同時に踏んでいるような感じ。

そんなふうだったことを、なぜだか、今、思い出した。

今、静けさの中で、ただただ広がるよろこび、ただただ広がるすべてへの感謝を感じながら。

わたしの場合は、よろこびとか、うれしいとか、歓迎とか、あとは、わくわくとか、うきうきとか、そういうことを、祖父母や両親の「あのとき、わたしが体験した出来事、表情、声のトーン、わたしが胸に感じた痛み」と紐付けしたままでいたようで、

その「わたしの物語、わたしの見た世界」からいろいろなものを見てきたんだと思う。

それで、受取拒否をしたり、「ほんとうはとてもうれしいけど、あまり顔に出さないようにしなきゃ、だって、相手を不快にさせてしまうかもしれないから」みたいな変な遠慮?(遠慮?)に、つながっていたのかもしれない。

無意識が意識化されていないままのときは、無意識なので、よくわからないけれども。今、これを書きながら、そう思った。

でも、相手がさみしいといっても、相手が不快な思いをしたとしても、それは「わたしがその総責任者である、わたしのせいである」ということではないんだ。

わたしがさみしいとき、それは、たださみしい。相手のせいではない、たださみしい。そして、さみしい感じを感じるなら、さみしいと感じていい。

さみしいときに、さみしいとただ感じる。誰のせいにもせず、何かを変えようとしたり、動かそうとしたり、「さみしいからそばにいてよ」と考えたり、そういったことは脇に置いて、ただ、内側に、さみしいような感じがあるときは、たださみしいような感じを、わたしがわたしに感じさせてあげる。

そのように、さみしい感じをただ感じていると、それは「さみしい」ではないかもしれない、という、その奥の場所へと導かれたりする。

このことに、許可を出し続けて。このことを、練習し続けて。今も練習中。

そうすると、見えてくる景色はいろいろとある。そして、その”奥の場所”の感じ。

静かで、平和で・・・わたしは今、胸の奥がくすぐったいような感じがある。

こんなことを思い出しながら、わたしは、今、

誰かが来たときも、去るときも、同じように静けさの中から広がる喜びの中にとどまっていることができたら、素敵だな、と思った。

そんな心を感じ続けていたいな、と思った。

そして、その心から、自然と滲み出るままにゆだねていることができたら、どんなに素敵なことだろう、と思った。

そして、どこへ出かけても、誰とあっても、この、今、心に感じている静かな喜びのような感謝のような心にとどまったまま、その心から自然と滲み出るままにゆだねることができたら、そのようにして、歓迎(常にそこにある喜びに心を開く)ことができたら、どんなに素敵なことだろう、と思った。

今日から、オンラインクラス夏がはじまります。

「クラス」というタイトルに、多少違和感がないこともないのですが。笑

ま、いっか。

わたしは、こんな感じで、この内なる感覚を感じ続けていたい、ここにとどまりつづけていたい、そして、その心から自然と滲み出るままにゆだねたい、と、思いました。

「わたしは、こう思う」と、最近、意識的に書いている(練習している)のですが、それは、あなたがただあなたで嬉しい、ただあなたがいてくれて嬉しい、みたいな思いが同時に思い出されて、嬉しいからです。

「わたしは(Aさん)唐揚げ定食を食べます」「ぼくは(Bさん)焼き魚定食を食べます」「わたしは(Cさん)今食べたくないので麦茶だけ飲んでおきます」「ぼくは(Dさん)食べることも飲むこともせずただここにいようと思います」

それは、平和で、ほのぼのした感じです。

すべて愛に見守られている。包まれている感じ。

オンラインクラス春にご参加のみなさん。

オンラインクラス夏にご参加のみなさん。

これを読んでくださっている方。

セッションでお会いしたみなさん、これからお会いする予定のみなさん。

メールをくださっているみなさん。

今年も変わらずに鳴いてくれているすべての蝉たち。

葉っぱをキラキラと光らせてくれる太陽の光。

・・・書きはじめると、無限に出てきますので、一旦ここまでにして、すべてに、心からの感謝を捧げます。

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