心が苦しいとか、この苦しみから解放されたいとか、
あるいは願いを叶えたいとか、執着が苦しいとか、自分のことがどうしても嫌いだとか、
人間関係(恋愛、親子など)、お金、健康(美容)、仕事、人生全般。
とにかく何かがうまくいかなくなって、あるいは、何かをうまくいかせたくって、心だったり、スピリチュアルだったり、法則だったり、いろいろ調べたり、学んだりしていたりすると、必ずどこかで「承認欲求」という言葉に出会うはず。
承認欲求というのは、たとえば、
自分の話を聞いてほしい
自分のがんばりをほめてほしい
みんなから好かれたい、嫌われたくない
たくさんの「いいね」がほしい
みんなよりも自分のほうがすごい、あの人より自分のほうがすごいって、わかってほしい、認めてほしい
・・・などなどです。
「ねぇ、ママ!!見て見て!!」
って言って「えらいわねぇ、すごいわねぇ」と言ってほしい!!
・・・という感じが思い浮かんで「なんだか、かわいい」みたいな感じがしてきますが。
内側と向き合ってると「承認欲求」というのが鬼のように思えてくることがあります。笑
承認欲求だけでなく、欲求と執着は、わたしは、祈り、悟りに通づる道だと、思っています。
わたしは、人生の大半を、この、内面の欲求や執着と向き合ってきたんじゃないか、という感じがしていて、強欲じゃなければ、お祈りなんて、していなかったかもしれません。
承認欲求の次にあるものは、自分が自分の中にある愛を認める、ということ。
自分が自分の中にある”愛”を認める。
この”愛”とは、人間界の条件づけの愛じゃなくて、神の無条件の愛。
本当の自分自身とは、その無条件の愛である神と離れたことがない、愛そのものであるということ。
自分自身は愛そのものであるということ。
自分の中に神の力があるということ。
・・・これを、自分が、認める、ということ。
これはつまり、裏を返せば、自分の中に浮かんでくる愛以外の想念を疑う、ということ。
自分の中に浮かんでくる愛以外の想念、たとえば「この考えは正しい気がしてならないけれども、この考えを信じていても幸せではない」というものを疑っていくということ。
たとえば「彼がわたしのことを大切にしてくれない」というようにして、「彼」に向けられていた「疑い力」を、
「彼はわたしのことを大切にしてくれない」「わたしは蔑ろにされている」という考えを疑うことに使う。
問題は外側にはない。解決も外側にはない。外側は常に中庸。
世界がスクリーンで信念が映写機。