二つの「感謝」がある。
一つは「条件付けの感謝」。
たとえば「こんなうれしいことがあった。ありがとう」「美味しいご飯を食べられた。ありがとう」「家族がみんな健康であることに感謝」というようなもの。
これも、もちろん大事です。
これが、ないよりある方がいいのだろうし、当たり前のことをありがたく思えるというのは、本当に素晴らしいこと。
けれども、これだと、あるとき、「こんな自分」に対して疑問が湧いてくることがある。
「わたしは美味しいご飯を食べられている。でも、世の中を見渡せば、そうじゃない人だっている・・・」
「うちは家族がみんな健康だけど、今日、お友達のAさんのご主人が癌になったと聞いた。それを聞いたら、うちの家族が健康なことに感謝していることに、なんだか、罪悪感のような、モヤモヤを感じる・・・」
「うれしいことがあったら神様にありがとうだけど、うれしいことがなかったら神様にありがとうじゃないってこと?なんか私、図々しくないか?」
「果たして、ほんとうに、これで、いいのだろうか?」
わたしは、それで、いろんな人の話を聞きにいった。「罪悪感と感謝はセット。それはそういうもの」というような人が何人かいた。きっと、それで、しっくりくる人たちもたくさんいるのかもしれない。わたしも、一瞬は「そっか」と思ったことがある。
でも、それは、ほんの一瞬のことで、わたしは、だんだんと、罪悪感の感覚が強くなっていってしまった。
わたしには”罪悪感の訂正”は必要だった。
今では、罪悪感や疑問視が出てくるというのは、偽の自分(エゴ)に気づいて、本当の自分自身を思い出す・より深く自己一致する機会だと受け取っています。
もうひとつの感謝は無条件の感謝。
ただ、ただ、感謝。すべてに、感謝。
わたしは、これを「神に感謝」と呼ぶことがあります。
父(神の子の父は神)への感謝。
この無条件の感謝こそ、祈り。
答えの形は、もしそれが神によりあたえられたものであれば、あなたが見ている通りのあなたの必要に合致するだろう。これは、単に、神の声からの返答のエコーにすぎない。真の音源は常に、感謝と愛の歌である。
それならば、あなたはエコーを求めることはできない。贈り物は、歌そのものである。歌と一緒に、倍音や和音やエコーが生じるが、これらは副次的なものである。
真の祈りにおいては、あなたは歌だけを聞く。他のすべては、単に添えられて与えられるものにすぎない。あなたはまずはじめに神の国を求めたのであり、だからこそ他の全てが確かにあなたに与えられたのである。(中央アート出版 奇跡講座 S1-I.2-3)
この”歌”(感謝と愛)が祈り。
この感謝と愛の歌は、まさに”与える=受け取る”の中にいる、という感じがする。
ここにおいて、罪悪感は、存在できなくなる。
「感謝は大事」とよくいうし、そして、それは確かにそうだと思うんだけど、心の中により正直になればなるほど、感謝できないときだってあるんじゃないかと思うし、「罪悪感の混ざった感謝」というときだってあるんじゃないかと思う。
わたしはある。そういうときは「感謝が自然と湧き出てくる状態、一点の曇りもない状態にまで戻りたい」と思う。
「感謝が自然と湧き出てくる状態、一点の曇りもない状態にまで戻りたい」という望みは、必ず、叶えられる。
「最近、なんだか、すごく平和です。特に何かあったわけではないけど・・・。こんなときどうしたらいいのでしょうか?」というお話を聞くことがあります。
わたしは、そういうときは、この、真の祈りの”歌”を聴いています。
マインドトレーニングというのは、ただ、この”歌”を聴き続ける練習なんじゃないか、と、最近思っています。
なんて、甘く、とろけるような、幸せな”筋トレ”なんでしょう、と思った。