寝起きの身体感覚について祈った話

いつからだったか「朝起きるときの自分の反応、身体の感覚」が気になっていた。

わたしは、朝、パチっと目が覚めて、そのままピョンと飛び跳ねるようにして起きていたのだけれど、あるときまでは、それを「朝の目覚めがいい。朝から元気がいい」くらいに捉えていたと思う。特に問題視はしていなかった。

でも、あるときから、この「ピョンと飛び跳ねるようにして起きる感じ」に違和感を感じるようになった。

なんだか、落ち着きがない感じ、焦っているような感じ・・・そんな感じに感じるようになった。

そして、この、朝の「ピョンと飛び跳ねて起きるような感じ」を感じつつ、1年か2年か過ごした。

ちょうど、この1年か2年かは「朝起きたら、お祈りと瞑想が終わるまで布団からでない」と決めていた。

でも、朝、目が覚めたらまず「ピョンと飛び跳ねたい」感じがあるので、「朝起きたら、お祈りと瞑想が終わるまで布団からでない」と決めながらも、ピョンと飛び跳ねて起きて、部屋の中を動き回って、それから布団に戻り、お祈りや瞑想をしていた。

エゴは、「そんなわたし」を責めていたいようだった。

この数ヶ月は、朝「なかなか起き上がりたくない感じ」「二度寝をしたい感じ」を感じていた。

そして、朝のお祈りと瞑想が終わったら、そのまま二度寝をする・・・という日々を過ごしていた。

わたしは、あまり、このような感じ(二度寝するようなこと)になることが、もともとないほうだった。

特にこの季節・・・春や夏などは「朝絶好調」となりやすくて、通常より睡眠時間も短くなる。

春〜夏に、このような感じになるのは、わたしにとっては異例だった。

こんな日々が続くなかで、エゴが「これは問題だ。これはよくない」「だらしがない悪い人間だ」などと言いはじめたので、聖霊の赦しを学ぶ機会として受け取るようにしていた。

そして、今日の朝。

お祈りして瞑想して、二度寝して、「布団から出たくない、このまま寝ていたい」というのを通り越して、「身体がだるい、倦怠感がある」という言葉が浮かんだ。

「身体がだるい、倦怠感がある」というこの言葉は、ひさしぶりに自分の中に浮かんできた。

わたしは以前、年がら年中「身体がだるい、倦怠感がある」という感じだった。それで、さまざまな食事療法、健康法、漢方・・・とにかく、いろいろ調べ尽くし、実践してきた。

それで、あるときから「身体のだるさ、倦怠感」がほとんど気にならなくなって、「身体がだるい、倦怠感がある」という言葉もほとんど使う必要がなくなっていた。

「身体がだるい、倦怠感がある」という言葉がひさしぶりで、なんだか、ちょっと、驚いた。

そして、祈ってみよう、と思い出した。

「聖霊 この感覚をあなたの感じ方で感じさせてください」

ベッドの上で、目を閉じながら祈ったのだけど、祈った瞬間、瞼の裏が明るくなった。

瞼の裏が明るくなったのは、そばにある窓からお日様の光が差し込んでいて、お日様がちょうど動いたというのもあるかもしれないけれども、

急に瞼の裏が、ぱぁ〜っと明るくなるのを感じて、やさしい、安心するような感じが広がっていった。

「もう大丈夫よ」と、言われているような、そんな気持ちになった。

そして「身体がだるい、倦怠感がある」という感覚は、ゆったり、じっくりと、落ち着いた、そして、心地が良い意味でどっしりとした感覚に変わった。

身体の感覚自体が変わったのか、わたしの「この身体のこの感じに対する感じ方」が変わったのか。

これを書きながら、きっと後者なんだろうな、と思う。

それで、ゆったり、どっしりとした、芯からくつろいでいるような感覚で、ベッドから起き上がった。

この感じは、わたしにとっては、新しい感じだった。

最近は、このように、身体感覚だったり、「なんか嫌な感覚」について祈ることが続いている気がする。

「聖霊 この感覚をあなたの感覚で感じさせてください」

と祈ると「なんか嫌な感覚」と思っていた感覚も、全然嫌なものではない、むしろ、とても幸せなものだった・・・ということを受け取ることが続いている。

聖霊には、すべてが幸せに感じられるのかな・・・ということを「正解」を一旦脇に置いておいて、素で、そう思った。

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