あなたの中にわたしの無罪性を見る

今日の奇跡講座のワークブックレッスンは、

聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。(奇跡講座 中央アート出版 W-pl.161)

わたしは、このレッスンがすごく大好きです。

聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。私はあなたをキリストのまなざしで見て、あなたの中に私自身の完璧な無罪性を見たいのです。(奇跡講座 中央アート出版 Wp-I.161.11:7-8)

すっごく、大好きなお祈りのひとつで、このレッスンの日じゃない日でも、自然とレッスン161が思い出され、お祈りをしたくなることは、たくさんあります。

今日は、ちょうど、「母に気まずいことを言わなければならない日」でした。

「こんなこと言ったら、絶対に怒られるに決まってる!だってあのときも、そのときも!」「怒られたくない!」みたいな感じで、頭の中が子供みたいになってました。

母は、長い間、赦しの対象になってくれています。

これは、もう、絶好のチャンス。

こんな日に、レッスン161だなんて、なんてすばらしいことでしょう、と感動です。

それで、朝のレッスンの時間も、母が浮かんできたので、というか、母のことしか頭になかったので「この人を、ほかの兄弟たちの象徴として選び、この人に向かって救済を求めた(Wp-I.161.11:1より)」。

レッスンをしてみて「ああ、母も、ほんとうに神の子なんだ。わたしは、全然、母の中の聖性とつながろうとしていなかった。つながりたいとも思っていなかったんだ・・・」と気づいて、なぜか、穏やかな、優しい気持ちになりました。

そして「母の聖なる光を見せてほしい・・・見せてください・・・」と祈りました。

そして、母に会う直前。レッスンをしました。

レッスンが与えられていることが、ほんとうに、ありがたいことです。

それで「気まずいことを言う」とき。

なんと、母は、優しく、楽し気な感じで、対応してくれたのです。天使みたいだ、と思うほどでした。

・・・これは、わたしにとって、わたしの過去の経験から言って、ありえないことでした。

今まで、わたしは「母はすぐ怒る人だ。話も聞かずにすぐ怒る」と決めつけてたんだ・・・とはっとしました。

わたしの一方的な決めつけ、一方的なわたしだけの見方を、「これが正しい、真実である」みたいにして、

わたしは、母の、聖性を、ほんとうに、全然、見ていなかったんだ、ということを、痛感ました。

なんてことだ、と思いました。

母のことを、そして他の誰のことも、何のことも、キリストのまなざしで見たい、見続けたい、と思いました。だから、間違った見方をしていたら、すぐに、気づけますように、立ち止まれますように、正当化しませんように、どうぞ、導いてください、と祈りました。

それで、こうやって、書いたものを読み返してみて、「気まずいことを・・・」「(恐れ、緊張)」と本気で思っていたのは、なんだったんだろう、と思います。笑

兄弟を攻撃しそうになったり、彼の中に自分の恐れの象徴を知覚してしまうそうになったら、必ず、ただちにこの概念を使うようにしよう。そうすればあなたは、彼が瞬く間に敵から救済者へ、悪魔からキリストへと変容するのを見るだろう。(奇跡講座 中央アート出版 Wp-I.161.12:5-6)

アーメン。って言いたくなります。

ちなみに、アーメンとは「ほんまそれ」という意味だとききました。笑

今日もありがとう。うれしい。

目次